~人は仮面を与えれば服を脱ぎ出す~
〇はじめに
これは誤用。言語なんてものは変化(日々生まれ日々死んでいく)してなんぼのものでもあるけど、言葉を操ることを商売としている人は気を付けてほしいな。今やネットで簡単に意味も使用法も検索できるでしょ。いやそういう便利さ故に軽んじられる傾向もあるんだろうけどさ。
そもそも言語ってのはコミュニケーションツール故、正しい意味と使用法ってのは、本来もクソもなくて使用者の多数決からなるべきでもあるんだけどね。
〇想起する作品
「CUBE ZERO」(2004)「YES/NO」(2012)
「SHUT/OUT」(2014)
〇こんな話
どこからどこへエスケープするのか・・・〇エスケープ
最初のとある男に仕掛けられたゲームにおいて両刃の鍵が観せられるが、これによりこのゲームの行き着く先が生か死かの二者択一であることを印象付ける。 脱出=生であり、ゲームオーバー=死。脱出する事こそが、生き残る事こそがエスケープの本意であるのだと。いやもっと大げさで良いのかもしれない。全ての謎を解き明かし生きて脱出する事こそが救いであるのだと。
序盤のスムーズな謎解きの傍ら、露わになっていくプレイヤーたちの本性に秘密の関係性。外の世界では見えにくかった、いや甘んじていたそれぞれのプレイヤーの立ち位置が、役割がハマっていく。そしてそれが顕著になったことで爆発する積もりに積もった今までの不満。鬱憤晴らさでおくべきか!
この表出しない、いやその関係性を維持するために敢えて態度には出さない秘密の関係性と、脱出に繋がっていかない謎解きを絡ませたのはうまかった。解かなくてもいい謎もあるのだと。答えを知りながらも解き明かさない方が謎を残した方が目をつむった方がうまくいく場合もあるのだと。
では、現実世界とする場において、それぞれに不平不満がありながらもなぜその関係性を維持できていたのか。取り持っていたのか。そもそもなぜ維持しようと思うのか...
物事を円滑に進めるためなら人は多少の犠牲を払う。自己の利益に繋がるなら、そして損失を抑えるためならば最小限最低限のリスクなら冒す。時に自らの意思に反することもグッと堪えやりすごす、我慢し時を待つ。何かしら誰かしらを天秤にかけ吟味し選択し生き易さを探究している。誰と付き合うべきなのか、どこに所属するべきなのか...
容姿端麗頭脳明晰で一見完璧な主人公。しかし言葉の端々にどこか他人を見下している棘がある。ゲームが進むにつれ彼のつけていた仮面が案の定崩れ始めエゴが剥き出しになっていくが、それと共に見えてきたのは全知全能かの様に振る舞う彼独りでは謎解きが成立しなかったということである。自らが見下している他者の存在が欠かせなかったわけだ。彼は完璧な人間などでは決してなく、ただ完璧を演じていたに過ぎなかったのだ、いや、周りの人間に完璧を演じさせられていたに過ぎなかったのだ。彼もまた役割を担っていた、担わされていたに過ぎない。
ゲームに独りあぶれどこぞのパーティに行くと言っていた女性が最後に映し出されている。
これは別のところでゲームが開催されているとする話の一環もあろうが、この場面だけで考えれば、
全裸でゲームから現実世界へと脱出(エスケープ)した女性
と、
服を脱ぎ捨て現実世界からパーティという非現実へと誘われていく(エスケープする)女性
との対比なのだろう。
そして現実へと脱出を果たした女性が囚われていた檻というものを考える。檻とは何かしらを捉えるものであるわけだが、閉じ込める対象により意味するところが変わってくる。中のモノが危害を加える危険性のあるモノであれば、外のモノが守られることになり、逆に弱きモノであれば中のモノが守られることになる。
こういった示唆がエスケープの本意であったはずのルート、全ての謎を解き明かし生きて現実へと脱出する事に対し抵抗感を覚えさせることになる。
ゲームから現実への脱出(エスケープ)が主であるわけだが、そのゲームをプレイするというのは現実からゲームへの逃避(エスケープ)でもある。
そして脱出先の現実が誰もが役割を演じている演じさせられているに過ぎないとするのならば、現実もまたゲームであるという見方ができ、それに対しゲーム内における現実にてひた隠しにしていた不満や怒りの表出はその人間の本心、つまり本性の現れだと言っても良い...だとするのならばゲームの中こそが現実であるとも見ることができる。
現実世界とは割り当てられた役を演じる場...
ゲームとは現実世界における役割を気にせず羽目を外す場...
いったいどちらが現実でどちらがゲームと言えようか?
片やゲームから現実へ、片や現実からゲームへとエスケープした先ほどの全裸の女性2人...
現実世界という場で役を演じるために羽織っている衣服に心の仮面を拭い去り心身共に剥き出しという共通する状態でエスケープしたにも拘わらず、その道具の喪失の意味するところが両者で異なってこないだろうか。
ゲームによって現実世界でつけていた心の仮面を剥がされ衣服を奪い取られ心身共に剥き出しとなった状態で現実へと脱出(エスケープ)した女性...
と、
物理的な仮面をつけたことで心の仮面を外し衣服もまた脱ぎ捨てありのままの自分としてパーティという非現実へと誘われていく(エスケープする)女性...
との2人の対比の意味するところはつまり現実とゲームとの世界の逆転である。
ゲーム(パーティ)に参加する女性は、自らの意思で着脱を行っており、その行為の意味するところは、現実世界における役割の小休止...終焉...放棄...etc. と考えられるが、自らの意思の範囲の限りならばいずれにせよ現実への復帰は可能となる。
ではゲームから現実へ、そして自らの意思に反して、とそれぞれ逆方向に働いたとしたらどうだろうか。現実における役割が用意されていない、奪い去られてしまったとしたらゲームから現実へと不都合なく復帰できるのだろうか。
最初に提示された全ての謎を解き明かし生きて脱出するというエスケープの本意と想われたルートを辿った彼女に救いを見出せただろうか?
現実とはいったいどこからどこまでで、はたまたゲームとはどこからどこまでで、はてさてどこからのどこへのエスケープを望み、そのエスケープとはいったい何によって可能となるのか・・・
・・・アディオス。
序盤のスムーズな謎解きの傍ら、露わになっていくプレイヤーたちの本性に秘密の関係性。外の世界では見えにくかった、いや甘んじていたそれぞれのプレイヤーの立ち位置が、役割がハマっていく。そしてそれが顕著になったことで爆発する積もりに積もった今までの不満。鬱憤晴らさでおくべきか!
この表出しない、いやその関係性を維持するために敢えて態度には出さない秘密の関係性と、脱出に繋がっていかない謎解きを絡ませたのはうまかった。解かなくてもいい謎もあるのだと。答えを知りながらも解き明かさない方が謎を残した方が目をつむった方がうまくいく場合もあるのだと。
では、現実世界とする場において、それぞれに不平不満がありながらもなぜその関係性を維持できていたのか。取り持っていたのか。そもそもなぜ維持しようと思うのか...
物事を円滑に進めるためなら人は多少の犠牲を払う。自己の利益に繋がるなら、そして損失を抑えるためならば最小限最低限のリスクなら冒す。時に自らの意思に反することもグッと堪えやりすごす、我慢し時を待つ。何かしら誰かしらを天秤にかけ吟味し選択し生き易さを探究している。誰と付き合うべきなのか、どこに所属するべきなのか...
そのために人は誰しもが誰かしらを演じ、その場における役割を担い、何かしらの皮を、猫を被っていると言える。
容姿端麗頭脳明晰で一見完璧な主人公。しかし言葉の端々にどこか他人を見下している棘がある。ゲームが進むにつれ彼のつけていた仮面が案の定崩れ始めエゴが剥き出しになっていくが、それと共に見えてきたのは全知全能かの様に振る舞う彼独りでは謎解きが成立しなかったということである。自らが見下している他者の存在が欠かせなかったわけだ。彼は完璧な人間などでは決してなく、ただ完璧を演じていたに過ぎなかったのだ、いや、周りの人間に完璧を演じさせられていたに過ぎなかったのだ。彼もまた役割を担っていた、担わされていたに過ぎない。
ゲームに独りあぶれどこぞのパーティに行くと言っていた女性が最後に映し出されている。
これは別のところでゲームが開催されているとする話の一環もあろうが、この場面だけで考えれば、
全裸でゲームから現実世界へと脱出(エスケープ)した女性
と、
服を脱ぎ捨て現実世界からパーティという非現実へと誘われていく(エスケープする)女性
との対比なのだろう。
そして現実へと脱出を果たした女性が囚われていた檻というものを考える。檻とは何かしらを捉えるものであるわけだが、閉じ込める対象により意味するところが変わってくる。中のモノが危害を加える危険性のあるモノであれば、外のモノが守られることになり、逆に弱きモノであれば中のモノが守られることになる。
こういった示唆がエスケープの本意であったはずのルート、全ての謎を解き明かし生きて現実へと脱出する事に対し抵抗感を覚えさせることになる。
ゲームから現実への脱出(エスケープ)が主であるわけだが、そのゲームをプレイするというのは現実からゲームへの逃避(エスケープ)でもある。
そして脱出先の現実が誰もが役割を演じている演じさせられているに過ぎないとするのならば、現実もまたゲームであるという見方ができ、それに対しゲーム内における現実にてひた隠しにしていた不満や怒りの表出はその人間の本心、つまり本性の現れだと言っても良い...だとするのならばゲームの中こそが現実であるとも見ることができる。
現実世界とは割り当てられた役を演じる場...
ゲームとは現実世界における役割を気にせず羽目を外す場...
いったいどちらが現実でどちらがゲームと言えようか?
片やゲームから現実へ、片や現実からゲームへとエスケープした先ほどの全裸の女性2人...
現実世界という場で役を演じるために羽織っている衣服に心の仮面を拭い去り心身共に剥き出しという共通する状態でエスケープしたにも拘わらず、その道具の喪失の意味するところが両者で異なってこないだろうか。
ゲームによって現実世界でつけていた心の仮面を剥がされ衣服を奪い取られ心身共に剥き出しとなった状態で現実へと脱出(エスケープ)した女性...
と、
物理的な仮面をつけたことで心の仮面を外し衣服もまた脱ぎ捨てありのままの自分としてパーティという非現実へと誘われていく(エスケープする)女性...
との2人の対比の意味するところはつまり現実とゲームとの世界の逆転である。
ゲーム(パーティ)に参加する女性は、自らの意思で着脱を行っており、その行為の意味するところは、現実世界における役割の小休止...終焉...放棄...etc. と考えられるが、自らの意思の範囲の限りならばいずれにせよ現実への復帰は可能となる。
ではゲームから現実へ、そして自らの意思に反して、とそれぞれ逆方向に働いたとしたらどうだろうか。現実における役割が用意されていない、奪い去られてしまったとしたらゲームから現実へと不都合なく復帰できるのだろうか。
最初に提示された全ての謎を解き明かし生きて脱出するというエスケープの本意と想われたルートを辿った彼女に救いを見出せただろうか?
現実とはいったいどこからどこまでで、はたまたゲームとはどこからどこまでで、はてさてどこからのどこへのエスケープを望み、そのエスケープとはいったい何によって可能となるのか・・・
〇最後に
生きてなんぼだろうが!!...と想えるようになりたいよね。どうせならポジティブに生きたいよね、うん。・・・アディオス。
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