~どう取り繕ったところで愉快犯~


〇はじめに

 あ~やだやだ…



〇こんな話

 ゲームスタート…



〇愉快犯

 前作からの仕掛けられたゲームへの違和感がはっきりとしたカタチになって現れる。


 ジグソウが仕掛けていたゲームとはどんなものだったのか。結局のところはジグソウのエゴであるわけだが、仮にそれを尊重するのであれば、生への感謝を謳ったものである。今ある命を大切にしろと… 幸せを実感しろと…

 当初はルールに従っていればもしや…とする兆しがあったわけだが、前作でゲームの内と外とでのアプローチが1作目に対し逆転していたように、明らかにゲーム参加者がジグソウに誘導されている様に映る。プレイヤーに与えられた選択権は仮初めのものでしかなく、すでにジグソウの望むべく結果は定められており、行われているゲームはただただそこへと辿り着くための道標でしかないのではないかと。

 そもそもゲームのルールとはジグソウが作っているわけであるが、ではジグソウはルールの内か外か。1作目にてジグソウ(ジョン)はゲームの中に存在していた。2作目においてもジグソウ(アマンダ)はゲームをプレイしていた。ジグソウ自身にも守るべきルールがあると自身たちで証明しているということであろう。

 要はジグソウもプレイヤーもゲームにおいてある種フェアな条件であるということだ。同じルール下にある。しかし今作ジグソウ(アマンダ)はどこに存在していたか。正確には彼女自身どこに存在していたと想い込んでいたのか。

 体の内から蝕む癌に侵されたジグソウ(ジョン)。それに対しゲームに仕掛けられた罠はどれもこれも外的に傷つけるものばかり。脳圧を下げる手術に目を背ける今回の1つのゲームの仕掛け人であったジグソウ(アマンダ)は何を意味していたのだろうか。


 後継者を決める最終試験であったと、彼女もまたゲームの内であったとジグソウ(ジョン)が示したことで、2作目から引きずっていたゲームにおける違和感は、ゲームの本旨つまりジョンの思想からズレが生じていたが故だと明らかになった。

 しかしである。そもそもゲームが仕掛けられているという時点で、プレイヤーに選択権があろうと決断が委ねられようと、何かしらの意図及び作為があることは明白だ。

 私の望むカタチ以外でのゲーム終了は認めない。いや逆か? アマンダのルール逸脱を咎めてはいるものの、ジョンの方こそ愉快犯であるという様相を呈し、ジョンという男のエゴが何とも際立ってしまうラストである。これではジョンはただただ不幸自慢大会で優勝したいだけだ。私が一番不幸だから何をしても赦されるというわがままにしか思えない。  

 これはジョンという人間の綻びか否か・・・

 ジグソウのゲームの主旨とは確かにズレがあったわけだが、それは確かに作品としての狙いでもあったわけだが、ラストに感じるこのジグソウの本意への違和感は、愉快犯であるという演出では決してなく、ジグソウとプレイヤーとの1対1ではない対立故、それぞれの人間の感情の連鎖と辻褄合わせに作り手が振り回されている結果なのではなかろうか。  

 描いていなかったところを描かなければいけない、隙間を埋めていく必要性に迫られる…というより無理やりにでもねじ込んで…といった具合のシリーズ化の弊害ではなかろうか。とも想えてしまう。


 どうなんでしょ・・・??


〇最後に

 一応次作で軌道修正は図られるというか、次作を以て一旦けじめがつけられるから、この作品単体というよりはシリーズを通してってな見方ができないといけないのかな? また次作で…

 ではでは・・・

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