~人はなぜ過ちを繰り返すのか~
〇はじめに
今映画業界でもこの手の脱出ものが流行りはじめてるの?? やってなんぼの世界ですよね。まぁ私なんかにかかれば一生脱出できないなんてザラなんでしょうけど。〇想起する作品
「ドリームスケープ」(1984)「ジュマンジ」(1995)
「NO EXIT」(2015)
「ジェーン・ドウの解剖」(2016)
〇こんな話
なぜ閉じ込められるのかって? 脱出したいからさ!!〇繰り返される過ち
隠し場所を知る者がこの世からいなくなって尚脈々と現代へと受け継がれてきたスカルボックスを眺めてみれば、そのゲームが人を惹きつけ魅了するという説得力には合点が行くか・・・そして人類が築いてきてしまった負の歴史のすぐ隣に存在しているソレを観せるオープニングにより、その呪いを知る者は死に絶え、知らない者がまた呪いに晒されるという連鎖故、これからも繰り返すのだろう人類の過ちに頭が行くか・・・
それはそれは多くの同パターンホラー映画が存在するけれど、一向に学ばない登場人物たちにイライラしたことがなかろうか。絶対にやってはいけない事として歴代ホラーが築いてくれたお決まりお約束を容易に破っていく馬鹿どもに。
今作はネットでホラー評論をやっている自称ホラー通の人間に、常にホラー業界の最先端を目指しオリジナリティを追求する人間に、お約束お決まりパターンを熟知しそれの脱却を望んでいる人間で観せることに意味がある。
こういったエンドレス系ホラー映画全般に言える話ではあるんだけど、ざっくりとは何故人間は過ちを繰り返すのか?という1つの解の提示よねやりたいのは、きっと。
脱出ゲームを手掛ける会社を運営する男は、他社(他者)との違いを創り出そうと躍起になる。人々を惹きつけ魅了するモノを作り出そうと、二番煎じを嫌いより新しきモノを求めオリジナリティをそしてリアリティを追求する。
数々の失敗の上に成り立っただろう成功体験を戒めとすることなく、新たな成功を追いかけている。過去の栄光に憑りつかれる反面、その過去を疎かにしている。
世間の風潮で成功者のお言葉(成功体験)を重んじる傾向があるけど、その反面失敗した部分は切り取られがちだし後々都合良くこじつけて美談にしたがる傾向もまたある。それ故に実際とはズレが生じ誤って伝わる場合が多々ある。そして成功ってのは個人の実力はもちろんあるが、運の要素の方が大きかったりする。それなのに成功という部分だけがフィーチャーされそれだけが独り歩きを始めてしまうことが問題で。
失敗を糧に成功を手にするというカタチではなく、失敗をしないために成功させたい…いやこれをやれば成功すると囚われてしまい失敗を蔑ろにしてしまうとでも言おうか。
そういった自己啓発的な流行がまずこの経営者から見えたりする。
“箱の力をわかっている者が持っている(管理している)方が安全”
“ゲームをやってみなければレビューは書けない”
そしてこの2つの発言に人類が過ちを繰り返す原因が見て取れる・・・
ゲームを選ぶ遊ぶとして、実際にプレイした人間と、エアプ勢との意見でどちらを尊重するだろうか? どちらを信用するだろうか?
仕事や何かしらのイベントにおいて、経験者と未経験者ではどちらを重用するだろうか?
ソレを知っているというのはものすごく価値のあることで・・・
伝統なり文化なり現世へと受け継がれてきている様々な“ホンモノ”があるわけだが、このホンモノというものはどのように伝わったのか。
本物を知らなければ本物かどうかわからない、見分けがつかない。本物を体験してみなければ本物には近づけない、本物にはなれない。…といった仕組みが組まれていませんか?と。
“ホンモノ”に触れて初めて“ホンモノ”をまた生むことができるわけである。
これが悪しきものに対してもまた有効というのが厄介なところで。他人が正すべきだろう過ちを犯して(示して)尚、繰り返される悲劇。毎年恒例となるお家芸が日本でも数多ある事を眺めて観ればそれは明白だろう。
私は、俺は、そんな過ちなど犯さない。絶対に大丈夫!
さらにこの先を描いているところがこの作品の良かったところ。同じモノを体験して尚…と観せる。
とある作品に関する評価が事あるごとに正反対な男2人が言い合いになる場面がちょくちょくある。同じ作品を観ているにも拘わらずだ。同じ体験をしたはずなのにだ。それなのに衝突が起きる…
それぞれ評価が異なるというのはそもそもの価値観が異なるが故だろうし、その価値観を形成するに至る経験や環境といったものが異なるというのも要因の1つだろう。それがとある段階になって表出し衝突しただけのことなのだが、互いに自らの正当性を重んじるあまり、マウントを取ろうとレスバするが故に埒が明かなくなる。
ここにヒトとヒトとが些細な事から争いにまで発展する典型例を見る。他者との相容れない価値観に寛容になれない。なぜなら同じ体験をしようとも、そこに至るまでの感性を経験していないからである、知らないからである。この争点において2人にはもう和平の道は残されていない。
まぁ全く同じ価値観なんて存在しないだろうし、全く同じであるということを確かめようも無いわけだけどね。
よく“常識的に~”とか“一般的に~”、“普通は~”なんて言葉が独り歩きするけれど、それぞれの使用者の定義するそのラインが明確に一致することってないからね。価値観とか感性の明確な共有ってのが困難だから、漠然とした表現に頼っているだけで。現にこの表現を共有している人間の間でも争いって起こってるでしょ…
〇疑念
骨董屋のおばさんが作品内におけるただの便利ツールにしかなっていないのが気になる。彼女がスカルボックスの危険性を知っているとするのならば、何が何でも引き留めるべき存在であって然るべきだと思ってしまう。そもそも見せびらかしている時点で彼女の言葉の説得力が皆無ではないか。ただ…経験者体験者の言葉を軽んじる姿勢すらも狙っているのならば評価すべきところか。それでも彼女という存在に都合の良さが見られてしまうのは否めない。
〇最後に
先人のお話は肝に銘じておかねばね。まぁでもなぜ“イケナイ”のかってのを理解するには失敗してみるってのは最善の一手でもあってね。実感を伴わないと染みないのよね身体に。難しいね。ではでは・・・
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