~迷信の成り立ちと同調圧力~


〇はじめに

 あ、あれ??、く、首輪違くない???



〇想起する作品

 「CUBE」シリーズ
 「SAW」シリーズ
 「人狼ゲーム」シリーズ
 「CUBE IQ ハザード」(1999)
 「隠された記憶」(2005)
 「エグザム」(2009)
 「9INE ナイン」(2009)
 「インシテミル 7日間のデス・ゲーム」(2010)
 「ヘッドハント」(2012)
 「ザ・タンク」(2017)
 「Miss ライアー」(2017)
 「ちはやふる 結び」(2018)
 「シー・フィーバー 深海の怪物」(2019)
 「Doubt」外海良基
 「JUDGE」外海良基
 「極限脱出」シリーズ


〇こんな話

 密室に閉じ込められた多種多様な老若男女○○人。何も起きないはずがなく...



ルールは絶対なのだ!!

 「SAW」もソウなんだけど、「人狼ゲーム」が近く、だいたい「エグザム」で、ダレン・ブラウンがショーとして(?)やっている心理学実験のどれかが一番確信に近い。...のだと思う。


 密室において掲示及び提示されるルールという絶対に翻弄され狼狽する多種多様老若男女な人間模様を追いかけていく...

 最後に目覚め最後に入室した女性の視点への同期により、「着替えの誘導」や「トイレの流し方の注意点」といった、部屋へと集った順番や過ごした時間の差異によるトライ&エラーの果てに彼らが独自に形成・構築した明文化されていないノウハウや要領が、ルールとは別にルールと同居するカタチで運用されていると魅せた導入は見事で。

 善意の下行われているに相違ないのだが、合理化ないし効率化を図るに当たりそれらが半ば強制強要され、何かしら誰かしらの自由が少なからず制限されているとする一面を示唆することで、彼らが見舞われることになる惨状の要因を紐解く取っ掛かりとしている。


 やたら何でも聞きたがる、言葉(単語)の端々に疑問を呈する、主人公と思しきうら若き乙女にネトネトねっちょりとした視線を送る存在を配置し、また各々に与えられた共有するか否かはそれぞれに委ねられたヒントなる情報の専有を以て、

 「容姿」「性別」「年齢」「名前」「出身地」「訛り」「好きな食べ物」「職業」「家族構成」「病気」...etc.

 見知らぬ場所における互いが互いを何も知らない状況下において、何を以ていったい何をいったいぜんたいどう判断するのか、そのモノたちは信用に足るのかどうなのか?、いや逆に不信感を募らせるのか?、という線引きの数々を見出させつつ、


 「男って馬鹿な生き物?」「司祭は小児性愛者?」「教師も小児性愛者?」「インド人は職を奪う」「黒人は薬の売人?」「黒人はレイプ犯?」...etc.

 彼ら彼女らがそこに集うに至るまでに、それぞれが晒され身を置いた環境によって根付き培われ築き上げられた偏見という名の経験則を明示し、それらの迷信や価値観の形成過程及び効力(強制力や拘束力)が、彼らが今当に追従しようとしているルールなるものと類似するものであると通じさせていく工程も至極丁寧。


 増幅していく疑心暗鬼の中で、またいつの間にか定着している信用の中で、それぞれの視点への共感や同情による同調、はたまた乖離と回帰を経て、彼らの行動に設けられた制限とは果たして何だったのか、いったい誰がもたらしていたものだったのか?、とする核心の追究(逆転劇)は非常に興味深いものだった。

 最後の生存者(たち)が意味するモノは・・・

 答えは常にすぐそこにあったのに、いやそれどころか最初から問題なんてものは・・・

 首輪など、元々ルールなど・・・

 迷信の成り立ち、ルール(時にマニュアルとも)という後ろ盾、同調圧力・・・


 ただ...、「彼らが自発的に」というのが根幹にあるため、当初よりプレイヤー目線でのゲームの目的が不明瞭なモノとして設定されており、脱出ゲームというゲーム性がほぼほぼ皆無なのが、作品に入って行く上で多少どころでなくネックになるかもしれない。

 「SAW」に始まる脱出ゲームブームに、ダレン・ブラウンの心理学実験ブーム辺りを前提に置き、それらの系譜として観ることができれば・・・

 自身の経験や体験を以て「そういえばそうかも~」となる、また勝手に見たい見出したい人間心理を楽しめればいいのではないだろうか。



〇最後に

 シリーズの中身が毎度ごちゃごちゃだけど、これは勝手に「JIGSAW」シリーズとして売り出して正解。

 ではでは・・・


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