~人工知能は人を幸せにするか?~
〇はじめに
なんでこう邦画は「主人公すげえ~」「現場の人たち可哀そう」ではなく、「警察無能だなぁ~」になってしまうのだろうか・・・〇想起する作品
「ターミネーター」シリーズ「地球爆破作戦」(1970)
「ウォー・ゲーム」(1983)
「ガタカ」(1997)
「マイノリティ・リポート」(2002)
「メン・イン・ブラック2」(2002)
「リクルート」(2003)
「アイ,ロボット」(2004)
「デジャヴ」(2006)
「アイアンマン3」(2013)
「相棒シリーズ X DAY」(2013)
「ゲノムハザード ある天才科学者の5日間」(2013)
「人間の値打ち」(2013)
「プラチナデータ」(2013)
「ホワイトハウス・ダウン」(2013)
「ザ・マシーン」(2013)
「オートマタ」(2014)
「DEBUG ディバグ」(2014)
「トランセンデンス」(2014)
「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」(2015)
「チャッピー」(2015)
「ハーモニー」(2015)
「シン・ゴジラ」(2016)
「ブレイン・ゲーム」(2015)
「虐殺器官」(2017)
「ジオストーム」(2017)
「ステファニー 死体と暮らす少女」(2017)
「ANON アノン」(2018)
「クリムゾン・プラネット」(2018)
「検察側の罪人」(2018)
「ジェネシス」(2018)
「名探偵コナン ゼロの執行人」(2018)
「エンド・オブ・ステイツ」(2019)
「空母いぶき」(2019)
「ブライトバーン 恐怖の拡散者」(2019)
〇こんな話
親は子どもを幸せにできるか?〇人間とAI、親と子
「親と子」の関係性に始まる「出産...子育て...教育......結婚......、家族...学校...組織...、世代交代...」といった一連の事象(サイクル)が、「人間とAI」においてはどの様に機能するのだろうか?「親と子」の関係性に準ずるのならば、「人間がAIを創り出す...人間がAIをプログラムする...人間がAIを利用する...AIに人間が管理される...???...」となり、AIが人間に取って代わることが必然となるのだろうか?
こういったAIが人間社会にもたらす可能性と危険性の想起は面白い。
そして「人工知能は人を幸せにするか?」=「子どもは親を幸せにするか?」という問いを、「親は子どもを幸せにできるか?」と言い換えることで、「子はいずれ親になる」ことを以て人間とAIの関係の在り方(共存及びサイクル)を展望させるのもうまいと思う。
しかし、娘の落とし物探しと主人公追跡という同等の事象に対し、目的は違えど同等の技術を以て、全く正反対なデジタルとアナログな手段を講じる様を観せてしまっては、何ができて何ができないのかという線引きが曖昧になり、AIの可能性(利便性)を以て危険性へと通じさせるはずのところが希薄になってしまう。
そもそも、「写真(鏡)落とすかなぁ~?」とか、「アレ落としたら結構音するだろうから落としたとしても誰かしら気付くと思うけど?」とか、...娘が陥ってしまう状況への流れに疑問を抱かせてしまうのも如何なものか。あるっちゃあるだろうけれど。それとも他人に無関心な社会への揶揄もあるのだろうか? しかしそれは親と子の話と乖離していないか。主人公は人間らしい生活をしようと職を離れた男であり、親である。
人間在りきとしたいのはわかるが、それならば尚更人に寄り添う落とし物探しと、およそ関わりの無い人間のプライベートガン無視な主人公追跡とが、同じ技術やプロセスで行われていると繋げるべきであり、その善悪を構築するのは左右するのは、活用する人間次第である、としなければならなかったはず...
AIの能力が人間側の不自然と感じてしまう都合にその都度左右されてしまう描き方は、作品の帰結に齟齬を生じさせることになっていないだろうか?
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