デスノート Light up the NEW world (2016)

2020年7月27日月曜日

2016年の作品 ジャンル:サスペンス 製作国:日本

t f B! P L


~デスノートである意味が無い~


〇はじめに

 普通におもしろい。ただこの作品の唯一と言っていいそして致命的なミスは、「デスノートである必要無かったんじゃないの?」と思わせてしまったことだろう。争奪するのがデスノートでなく成立しうるお話だということ。頭脳戦(心理戦)ではなくただの追いかけっこになってしまったこと。

 総じてデスノートという脅威も感じられない。一番に警戒していかなければならない人間たちの無知蒙昧さがそれに拍車をかける。お前らは一体今まで何を追いかけていたの?と溜息が漏れる。登場人物の誰一人としてデスノートを脅威と感じていないような行動の数々はさすがに擁護できんよ。



〇想起する作品

 「仮面ライダー龍騎」


〇こんな話

 デスノート争奪戦。


〇デスノート

 最初の通り魔事件。近年あった事件を基に無差別的な犯行として恐怖を描こうとしたのだろうが、それよりも他の凶器で代用できてしまうのではと思わせる。実際デスノートという手段でなく凶器を手にした人間が犯行に及んだ、一線を越えたという事実があることが裏目に出ている。

 デスノートという簡単に人を殺す手段を手にしたからこそ通り魔殺人を行った人間(の狂気)と、現状持てる手段でほとんどの人が踏み越えない一線を踏み越えて通り魔殺人を行った者(の狂気)とでどちらが恐ろしいものなのか。あの犯行においてデスノートを使う意味や意義が見出せない。恐怖が見出せない。


 無差別殺人における恐怖を描きたいのならば、誰が狙われるのかがわからないというところに、誰が狙っているのかがわからないと見せることができればまた見え方は変わってきただろう。たった一回だけの事件ではなく、もう何十件と通り魔事件が起きていると。それなのに犯人を特定できていないのだと。

 死因や死亡までの行動を操ることができるというルールがある。これは1作目のデスノートのFBIの件で描かれた。事前に死因を書き込んでおき、後から名前を付け足していけばいい。そのちょっとした準備だけで、彼女の行動範囲は抜群に狭められることができ、且つ捜査員の目を容易に眩ませることができる。どこか行きかう人々を観察できる場所に陣取り、死亡までの時間を操作することができれば範囲を特定されにくくなるという算段だ。カフェ等でノートに文字を書き込んでいる人間を今や誰が怪しむ。

 例えばある一定方向に歩いていく人間に焦点を絞り、死亡までの時間を段々と長く設定していく。そうすると一本道を前提とするが、デスノートに書き込んだ場所から段々と離れるカタチで死体の列を形成することができる。逆に自らの場所に近づいてくる死体の列を作りたくば、歩数や移動距離を記せばいい。

 ん、合ってるよな?? ・・・、まぁいいや。

 あ~そうだそんな面倒なことやるよりも死亡時刻設定できるんだった。

 ってか映像や写真でも良いんだよね。外出る必要も無いわ・・・ 第2のキラでやってたもんな。

 ま、彼女にそういった頭が無かったって話で終わりなんだけどさ。終盤やる人いるしね。


 そしてそれを追いかける捜査員たち。通り魔的犯行が分かった瞬間に死神の目を頭に浮かべなければならない。ノートの所有者による捜査員たちを誘き出すための罠という可能性をすぐに考慮しなければならない。一旦犯行現場に全員集合してから顔を隠すのでは遅すぎる。全滅したいとしか思えない。ここはデスノート及び死神の目の解説ではなく、捜査員の能力(頭脳)を提示するべき場である。この初動捜査で彼らの年季を観せなければ。


 世界規模だとして観せるためだろうが、ロシアにおける医師が病人に対してデスノートを使用したことで効力を確かめるというのはどうなのだろう。ほんとにノートの力なのかという確信をここで得ているのなら相当な頭の持ち主だよ。

 そんなことならね、もっと名前というところに執着すればよかったんだよ。日本における名前とそれぞれ外国における名前ってのは違ったりするわけでしょ。誰かしらから授かった名前。知れ渡っている名前と普段慣れ親しんでる名前と、違ったりするわけでしょ。

 ざっくりとは日本で言うあだ名か。キャサリンがキャシーに、ステファニーがステフになったりするわけじゃない。世界中の犯罪者をどうこうするならここは避けては通れない道だと思うがな。言語の壁はどうなっているんだ名前において。

 「バラク・オバマ」ですか?、「バラク・フセイン・オバマ」ですか?  

 「ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド」ですか ?
  「ピーター・コルネリス・マルタイン・ファン・デン・ホーヘンバンド」ですか?

 「森島はるか」ですか?、「森島・ラブリー・はるか」ですか?

 偽名ってところをさ、別のところで活かせなかったのかな? お相撲さんはどうですか。芸能人はどうですか。偽名を認知している人間と本名を認知している人間との数においてどちらが多いのか。その中で他者認識と自己認識(アイデンティティ)とでどちらが優先されるのか、されるべきなのか。本名、自分とは何なのか。この辺りの展望を狙ってみても良いのではなかろうか。

 そもそもキラってワールドワイドに犯罪者裁いてたよな・・・ 知らんのか? まぁ知らん人は知らんか・・・

 あ~あと読み方というところよね。TV等で度々読み方が変わる外国人を見たことがありませんか。

 「ビーダーマン」なのか「ビーデルマン」なのか

 「ミラ・ジョヴォヴィッチ」なのか「ミラ・ヨヴォヴィッチ」なのか

 「シャビ」なのか「チャビ」なのか

 「ムバッペ」なのか「エンバベ」なのか。

...これを日本で考えてみる。

 文字というところをどう判断するかなのよ。漢字というものを書き順も正確に書く必要は無いわけでしょ。これが最初に通り魔事件を描いてしまったこの作品のネックでもあるのよ。初めて見た名前をその場で書くだけで人を殺せるということ。

 映画「orange オレンジ」でも気になった方がいると思うが、その人の名前を初見で読めるのかというところ。翔と書かれていたら何と読むだろうか? しょう? かける? キラキラネーム、DQNネーム話題になってるじゃない。そもそも月(ライト)を読めない海砂を以前に描いていたわけで・・・


 つまりその人物の名前を読めるという必要は無いわけである。これはつまり殺せる条件は、顔と名前とを関連付けて認識している必要性とは、漢字を含めた名前という読み方(呼び方)を認識するのではなく、漢字というカタチを認識するだけでいいというアバウトなもので構わないことになる。


ならば1つ疑問・・・

 日本において今日の一般的な文字の書き方としては横書きであれば上から順に左から右に文字を流していき、縦書きになれば右から順に上から下へと・・・ この辺の認識の違いはどうなっているのか。ローマ字を縦に書いたら、右から左に書いたら・・・

 ノートに名前を書かれた人間が死ぬというルールは、果たして誰がその人物の名前を認識できればいいのか?

 漢字、平仮名、カタカナが入り乱れている日本の強みを活かしてほしいのよね。力という字は「か」なのか「ちから」なのかとか。画数の多い漢字なんていくらでもあるわけで。「龍」という漢字の何か右にある横棒なんか本数わからんじゃん。「拝」は?「鳥」と「烏」の区別なんてさ、一見じゃ難しいよ。名前にあるかはわからんが、「募」とか「墓」とか正しく書けますかと。「潟」とかどうなってんだよ。「檸檬」はどうなんねん。「沢」と「澤」の使い分けは。「齋」「斎」「斉」のこの辺の使い分けは。

 もうこなってくると「とめはねはらい」とかまで突き詰める必要性が出てくるわけだが、そういうとろこも含めて名前というものの認識を描いていってほしいわけよ。

 もうこんなところをほじくってくしかないんじゃないのかなデスノートという題材は・・・

 本名がどうのという件があるが、初っ端の通り魔殺人事件で破綻してしまっているのよ。同じような事象は描いていたが、前作までは特に気にならなかったんだけどな・・・


・・・あ~でも今回の死神の目においてはふりがなをローマ字でふってあるのか。


 全体的に頭脳戦じゃなくなっちゃったんだよね。ただのデスノートを巡る追いかけっこに終始してしまっている。頭脳を使うところを拳銃で脅し、恫喝することで人間を動かしている。落としてはいけない要素がひたすらに削ぎ落とされてしまっている。

 情報社会における、情報戦における主要人物暗殺なんてのはスパイ映画でいくらでも出てきているわけで。それらとデスノートを使用したことによる違い(恐怖や利点)というのが全く以て描かれない。ここが肝であり、描けていればこの作品の絶対的な強味になるのだが。

 デスノートとして観るとデスノートという意義は感じられず、新シリーズの始まりとして観るにも初見では厳しい。何とも中途半端な作品だ。


〇余談

 エンタメ性高めるならね・・・

 瞬間記憶能力者とか出してもいいんでねえの? Lの名前憶えてな~いっていう弥海砂の失敗があったじゃん。それを東出の目の契約ではなくこういう特質的なところで描いて欲しいのよね。漢字のカタチというところもこれで多少補完できたりする。

 盲目の人間が死神の目で光を手にするとかいう設定もできなくないでしょ。世界のギャップに直面するとか何かしら掘り下げられると思うがな。狂枷蟋蟀・・・

 要は、頭脳という能力ではなく、他の部分で特化した能力を描けばいいのよ。例えば速記はどうか。その書いた本人のみが理解できる文字というもの。格段にバレるリスクは軽減する。

 仮に漢字を正確に書かなければいけないのであれば、二本(以上)書きや、両手で書いたっていいではないか。名字から名前を手1つで順々に書くよりも、名字名前を左右の手で別々に書くとか。


 あとね、タイプライターって知ってますか?と。ペンを使って書くのとどちらが速いのよ。「タイピスト!」観てくださいよ。めちゃくちゃ速いんだよあの人たち。

 日本勢はどうするのよ?と。プリンター(印刷機)って知ってますかと。ワードでもエクセルでも名前に死因に好きな様にひたすらコピペしとけよ。日々蓄積させていくデータベース作っとけば良いんだよ。で、好きな時に好きな枚数印刷すればええやん。犯罪者リストあるならコピペして印刷ポチ~で終わりじゃん・・・


 なぜ手書きに拘るのか。理由があるならあるで何かしら解消しようと作品として試みてみてくれ。「ザケル!!」

 ノートが羊皮紙みたく変更されており、インクで書くといったところを最初に観せていたから何かしら捻ってくると思ったのだがまるで無かったのは本当に残念だった。


〇最後に

 前作からのネタはひたすらに見受けられ、デスノートファンであればある程度は思い出に浸れるであろう作品には仕上がっていると思う。ただそれ故に初見では厳しいだろうところがあり、そんな方たちにこの作品を導入としてデスノートという脅威が浸透したかと言われればそれは無いだろうとの感想が湧く。

 どうせなら戸田恵梨香も出ていることだし「LIAR GAME」的なノリにしてくれてよかった。もし続編が製作されるのであれば考慮してほしいところ。


 続編、あっ・・・

 ではでは・・・

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