ジェネシス (2018)

2019年12月21日土曜日

2018年の作品 ジャンル:SF 聖書:創世記 製作国:イギリス

t f B! P L


~世界五分前仮説~


〇はじめに

 なんかこの系統流行り始めたよね。もう少し面白く観られる作品出てこないかな。



〇想起する作品

 「クローン」(2001)
 「ターミネーター4」(2009)
 「コロニー5」(2013)
 「ザ・マシーン」(2013)
 「オートマタ」(2014)
 「モーガン プロトタイプL-9」(2016)
 「いじめられっこ」世にも奇妙な物語にて


〇こんな話

 ロボットが人類に取って代わる...



〇人間らしさの構築

 人類の誕生と繁栄は偶然か?必然か?

 地球という環境が人類の生息に異常なほどまでに適しているが故、まるで人類のために用意された玉座かの様に錯覚し、地球の覇者であると自負してしまうのは致し方ない。しかしこれには実は逆の見方ができることも忘れてはならない。地球が人類に合わせたのではなく、人類が地球に合わせているのだと。たまたまその環境に人類が適応できただけなのだと。

そんなことを踏まえ考える...

 現状人類が闊歩する地上が汚染され生存不可能な環境となったら人類はどうあるべきなのだろうか?

 1つ、再繁栄に向け生き残る

 人類はただ晒される環境に対し流されるだけでなく、自らの手で生存可能領域を構築する事が可能である。この行いが可能な限り人類は生存を許される。いや生存しなければならないという義務が生じる。

 1つ、人類の時代は終わりだとただ死に逝く

 生身で生き残れないそして大多数が生き残れない環境の変化は、人類の生きる資格を奪うものである。人類は絶滅すべきであり、次の支配者となるべく種に地球を委ねるのが定めである。



 人類の選択と自然の摂理とはどのように呼応するのか・・・

 人類の選択こそが自然の摂理なのか、いや人類とは別のところに意志が存在するのか・・・ 

 人類はどこに位置付けられるのか・・・


 自らが人間であることに何ら疑いを持っていなかった人物に対してのこの言葉...、これはそのまま人間に対して言えることである。

 マシンがプログラムの基動いているとしたら、人間は何を基に動いているのだろうか? そしてどこへ向かおうとしているのか?

 そもそもマシンに組み込まれたプログラムとは人間の意志によるものなのか、それとも人間がマシンにプログラムを組み込む様にとする別の意志が存在しているとは考えられないだろうか...

 とある者は人間と感じることと人間であることは違うと言う。記憶や知識は当てにならないとするのならば、自分を人間であるとどうやって証明することができるだろうか? 人間を人間たらしめるものとはいった何だろうか...


  市民は人間らしく生きたいと権利を主張する。では人間らしさとはいったい何なのだろうか?

 この人間らしさの構築に一役買っているのが宗教(信仰)の存在だとしよう。今作の場合は旧約聖書、そしてタイトルとなっている創世記...

 ではこの宗教(信仰)が人間を人間たらしめるためのものではなく、マシンが人間らしさを踏襲するためのものだとしたら。つまり人間が体系化した信仰はマシンが人間らしさを継承するための形式的なテストであったのではないか...と。  

 そう捉えることができるのならば、マシンは人類の意志を引き継ぐ者と言える。人類の目的とは人類として生き抜くことではなく、マシンへの意志の引き渡しなのだ。

 つまり人類の行いは過ちも含め全て何かしらの意志の下行われているものなのである。

 反論どうぞ!!



〇最後に

 実際どうなんだろうね? 人類に知る術はあるのか、知る間もなく逝ってしまうのか。

 とある作品では全部人類の言い訳でしかないと言ってたけど。そりゃそうだよね、自らを正当化できないのならば生きている意味が無いのと同じだし。いやそれすらも人類の勝手な驕りなのかもしれないね。生きることに意味を見出すってこと事態が。でもさ、それを見つけられなければ不安に陥る様にプログラムされてるじゃん。これって何なのよ・・・?

 ではでは・・・

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