~夢~
〇はじめに
で、この作品の本質はどこにあるんだ?〇想起する作品
「激突!」(1971)「ヒッチャー」(1986)
「リサイクル 死界」(2006)
「パーフェクト・ゲッタウェイ」(2009)
「パーフェクト・プラン 完全なる犯罪計画」(2011)
「悪の教典」(2012)
「サード・パーソン」(2013)
・・・これが一番近いんだけど、よりミステリーに寄せた感じ。
「ピンクとグレー」(2015)
「午前2時のチャイム」
・・・世にも奇妙な物語にて
〇こんな話
書けないならばその書けないを書けばいい・・・〇夢
モノの見え方ってのはいくらでも変わる。その人間を形成してきた境遇や経験といった長期のモノから、ほんの一時の感情という短期のモノによって。ポールへの助言としてジャックに小説の書き出しを語り出させることで、とある出来事(特にはダイナーの騒動)においてそれまで形成していたイメージを一変させる様を植え付けたのはうまい。これで作品に対して疑り深くなれる。
デートに誘った女性に抱いていたイメージがとある場面で変わらなかったか。あ~子供いるんだ…とならなかったか。
保安官を撃つ場面はわかりやすいながらも、物理的な見え方(角度)によって受ける印象(真実)が変わってくることを直接的に突きつける。
陪審員の心象(印象)というところもラストに示唆されていた。
人生という舞台において自分が主人公であることに変わりはないが、周りの人間はただのNPCではないというところがこれにより際立ってくる。自分に人生があるように彼らにもまた人生があるのである。抱えているものがあるのである。
そしてポールが捉えている自分とジャックが捉えているポールというギャップや、何よりポールが認めたくない自分を殊更に突きつけられることになる事が重要で。
ラストは簡潔に言ってしまえば夢オチということになるのだが、夢とは記憶の整理であることからも、これは劇中の出来事を否定しているわけでは決してなく、主人公の今までの経験がこれから出来上がる作品として肯定されたと観るべきなのだろう。
ただこれを成立させるのであれば、現実における主人公をもう少し立てないとダメではないか…と個人的には思う。
しかし作家及び作品というものをどう捉えるかでまたこれも違ってくる。作家の生い立ちや主張から作品を見るのか、いや作品で描かれたことからその作家(もしくは作家性)を見るのか。
ポールの書いた小説の映画化の話があった。脚本を降ろされ完成した作品はタイトルだけを借りた別物になっていたと。作品というのは誰が読んでも同じ評価にはならないことをここで暗示する。単純に高評価低評価というもので二分され、そして作品に何を見るのか、作品のどこをどのように評価するのかというのが個々人で全く異なってくる。要は解釈の幅のお話なわけだが。
映画という媒体でもたまに無いだろうか? この作品はあの監督だからと先入観や偏見ばりばりで捉えてしまうことが。まぁこれは作品だけで見えてこないモノを周辺情報から補足するってな真っ当な手段でもあるんだけどね。
容姿の一致から主人公をポールだと思ってアプローチし、ラストもそうやって決着を見るように思うが、主人公事態が犯人であるかもしれないという示唆と、小説の構想ということで劇中の出来事及び登場人物は彼の経験であり知識であり偏見であり…とする代弁者もしくは別人格として機能していることがわかる。
若くしてヒット作を飛ばし栄光を手にしたはいいがそこからは急転直下。筆が進まない最初の主人公を観ればこれは事実だろうし、あってほしくはないが連続殺人事件なんてありふれている。いや研究されたと言うべきか… 妻がいなくなったというのは当初離婚(出ていった)とされているが、黒蝶(ブラックバタフライ)にはどうやら死者が関係しているようで。そういえばダイナーで無理な追い越しをした奴の所為で友人を亡くした男が描かれていた。妻ではないかもしれないが彼の周りの人間に不幸があったのかもしれない。女性の悲鳴を聞いたという件や、夜中首元にナイフを突きつけられた経験ももしかしたら…。
どこまでが現実かは結局はわからない。しかし自分から観た世界だけが真実ではない。それぞれに向けたそれぞれに望む結末がある。モブキャラだと想われた人物たちに意味をもたせるどんでん返しからのもうひと返し。何が真実でどれが本当の自分なのか。物語の結末を見ないが故に曖昧なまま故に、それを探ろうと掘り下げようとする。これにより他人のそして何より自分という存在への肯定感へと繋がる。
〇最後に
いやどこかで見たと想ってたんだけど・・・ このシーンの上目遣いでやっとピンと来たよ。「Re:プレイ」(2004)の看護師の人ね。パイパー・ペラーボ。化粧っ気ですごい印象変わるから毎回彼女だと気付かずにスルーしてる作品多いけど…
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