ザ・シェル 第三次大戦 (2016)

2019年12月25日水曜日

2016年の作品 ジャンル:SF 製作国:アメリカ

t f B! P L


~新世界への系譜~


〇はじめに

 美的感覚や感性って人それぞれだと思うんだけど、この作品の致命的なところは、シェル(義体でいいのかな?)というメリットの1つである外見・容姿というところを初っ端から否定するところよね。滞納してまでも固執する価値が無いと判断させてしまうところ。



・・・この人は綺麗。


〇想起する作品

 「マトリックス」
 「トロン」(1982)
 「13F」(1999)
 「GAMER」(2009)
 「サロゲート」(2009)
 「トロン:レガシー」(2010)
 「リアル 完全なる首長竜の日」(2013)
 「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」(2015)
 「ザ・ヴァーチャリスト」(2015)
 「バーチャル・レボリューション」(2016)
 「13番目の客」
  ・・・世にも奇妙な物語


〇こんな話

 ???



〇新世界へ

 マニュアル人間を構築しているのは、その分野においてAI(機械化?)への置き換えをスムーズにするためってな話があるけど、これもそういった話に繋がるよね・・・

 近年ネット依存スマホ依存と話題に登ってるけど、これって来るべき新世界への系譜なのではなかろうかと。

 例えばネット掲示板やソシャゲやオンゲに夢中になる常駐するってのは、あちらの世界こそが自分のいるべきあるべき世界だってな現実世界からの剥離ないし逃避が理由の1つとしてあるわけだけど、「ザ・ヴァーチャリスト」(2015) でも書いたが現実世界と仮想世界との逆転現象が起きたらどうなるだろうか・・・

 今まで人間の手による負担が大きかった分割されていた作業の数々が、スマートグラスなりスマートスピーカーなりで1つのもので行える様にと統合が図られているという事実もある。

 現状人間が〇〇したいとする意思の下、機械へと積極的なアプローチを試みているわけであるが、これが段々と人間が〇〇したいと思う前に意志を汲んでくれたり、いやむしろ〇〇したくなる様に仕向けるといったアプローチの逆転が起こったら、人間と機械における負担の比重が逆転したらどうなるだろうか。

 シェルに入る上で意志の承諾が描かれているが、このシェルを操作するという行為は人間を起点としている様に映る。〇〇したいというのは正真正銘自分自身の意志であると。

 しかしその意志とは人間自らを起点としたものではなく、この場合シェルに入り込ませたいとする別のナニカの意志によって操作されているとしたらどうだろうか・・・

 自らの立場や立ち位置を確立するために自意識というものが要となるわけだが、その自意識というのは己のどこかからふと湧き起こるナニカ、1つ無意識無自覚な衝動を根源とするわけではなく、外的なナニカによって内なるものであると想い込ませられているといるとしたら・・・


 映画を観ているときだって、現実世界の事を一切忘れてたと感じることってありませんかね・・・?

 今や3Dや4Dってのが幅を利かせ始めたではありませんか・・・

 こういう世界の在り方の変化やその兆しってのは所々に見えてきていて・・・


〇最後に

 ぶっちゃけ何やってるかさっぱりわからん。何が現実で何が仮想なのかといった区別の前に、そもそものところ3つくらいパートがあるわけだけどそれぞれの関連が見えず全て同じ作品内の出来事だとは全く想えないだけでなく、同パートですら毎回違った世界に見え、さらにそれが意図してなのかせずなのかという判断も利かないのが本当にツライ。

 ではでは・・・

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