~母は強し~
〇はじめに
ふと不安に陥ることがありますよね。いずれ死ぬんだよなと・・・では死んだらどうなるのか?何も無いなら無いで今ある全てが失われることを恐れるし、あったならあったで依然証明できていない未知の事象だからと恐れる。どっちにしろ怖いんだよね。
〇想起する作品
「ザ・サイト」(2000)「マーターズ」(2007)
「悪魔の存在を証明した男」(2014)
「人生はノー・リターン 僕とオカン、涙の3000マイル」(2012)
「BLEACH」
〇こんな話
死は確実にある、そして訪れる。〇母は強し
心霊映像を観て驚く母親と、映像編集を生業としているからか冷静に分析する息子。片や実地検証においては子どもを目撃し一目散に逃げる息子と、トリックを暴き仕掛け人を取っ捕まえる母親。
心霊映像は画面越しということもあり直接に息子に危害を加えることはない。しかし実地という事ならば話は別。ビックリと恐怖とのニュアンスの違いは多少あろうが、息子を守るためであれば銃を携帯し脅しをかけるのも厭わない。
母親は我が子のためであれば何でもどんなことでもする(できる)という説得力がこういったところに散見される。
父親の死により息子が死に捉われていたように、母もまた息子の死を恐れ息子の生を守ろうと息子の身を案ずるという行為において死に捉われている。息子の理解するところでないところで… 囚われているというよりも向き合う覚悟を決めているからこそというか、生と死は隣りあわせであると割り切っているというか何というか・・・
この母子を観せてのラストの件であろうし、霊媒師のお話であろう。
そういえば…この母親の件に対し最初の科学者は父親なんだよね。幽霊役として息子に協力させていた。これも何か狙いがあるのかな?
死生観なんて早々に結論は出ないし、出せる様な事象じゃないから人は恐れるし苦しむ。それの解消にと何かに誰かに縋ったりする。
結局のところ“死”という事象ないし現象に対して出せる生ける者の答えってのは完全な理解とはほど遠くどこかでの割り切りに近いだろうし、かといって盲目的な信仰というほど逃避ないし妥協でもない。
そもそも“生”という事象ないし現象を理解している人がいないわけでね。仮に理解できた人がいたとしてもそれを他者に証明することは難しくあり、これは“死”という現象を説明することと同義と言える。
“生”というものがあるから“死”に向き合おうとし、“死”というものがあるから“生”に向き合おうとする…
“死”を証明するには“生”を証明する必要があるし、“生”を証明するには“死”を証明しなければならない…
ってな表裏一体みたいな話に通ずるのかな?
誰も知らないわからないからと恐れる。しかし誰しもが同じように抱えているモノがあるのは事実。それだけわかればいいんじゃない?
と言ってもこの作品で何を見る見つめるか・・・はまぁ自由だよね。
〇最後に
Clark Freeman、この人チャニング・テイタムに似てる。余談だけど、チャニング・テイタムとヘムズワース兄弟の区別がまた難しいんだよね・・・
ではでは・・・
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