ザ・ヴァーチャリスト (2015)

2019年12月23日月曜日

2015年の作品 ジャンル:SF 製作国:アメリカ 製作国:イタリア

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~支配欲~


〇はじめに

 支配という枠組みの狭さ(孤独)と仲間という輪の広がりを、仮想と現実という2つの世界と、ホールデンという独りの男とフランチェスコ/ジョヴァンニという2人の親友との対比で感じられれば良いのではなかろうか。


〇想起する作品

 「トロン」(1982)
 「イグジステンズ」(1999)
 「マトリックス」(1999)
 「トロン:レガシー」(2010)


〇こんな話

 そうだ、ゲームの世界へ行こう!



〇支配欲

 現実と仮想、リアルとヴァーチャルの曖昧さに繋げるための制約故にできなかったのかもしれないが、序盤の彼らの立ち位置にてゲームマスター感をもっと演出しとくべきではなかった。チートによるプレイヤーの自由度ではなく、ゲームの世界全体への干渉の自由度を。

 このゲームが作られた動機、さらには現実逃避しがちな年代的なドラマとの兼ね合いを観せたいのなら尚更だ。不確定性原理を例にリアルにおける自己と他者とに当てはめたことで現実と仮想を定義しようとしているのはおもしろいのに勿体無く感じる。


 女性を裸にできるのか?ということで話題としては出ており頭にはあったのだとは思う。しかしこの作品外の何かしらの制約で表現できないところこそをもっと丹念に描き出して欲しい。

 征服感とでも言うのだろうか。自身のコピーであるキャラ(アバター)を理想へと昇華していくのはもちろんであるが、何より他者に対して理想を押し付けられるというのこの快感を充足させるのではないか。

 だからこそキャラを思い通りにできるという理想は、主人公視点ではなくモブ(サブ)キャラでこそ描かなければいけない。ここにこそゲーム及び仮想という逃避へと促すナニカがあるからである。

 どうせなら細部まで再現できないとしてもよかったではないか。凹凸が無い(乳首が無い)、陰部においては毛が穴が無いといったことでもできたはずだ。スタイルから何から思いのまま、理想の女性像(人間像)を創り出せるとしたって何ら問題は無い。現にそんなゲームが流行り出しているではないか。これを描けていれば、後のリアル彼女というギャップがもっともっと活きてきたはず。


 自分がもしゲームの世界に入りこむことができたら・・・、とする欲望の展望の描き方はうまい。ただこのクオリティではあまりその実感が湧かない。だからこそ別のアプローチを検討してほしかった。1つに上に書いたが、ゲーム内の主人公からの干渉ではなく、ゲーム外から思い通りの世界を創れるという干渉をだ。

 ゲームの中の世界でどうしたいかという欲望は、結局のところどうありたいかという体現であって。それならば自らに合った環境を求める、創り出してしまえばいいのだという怠惰(利便性)に繋がる。ここを是非とも描き出してほしかった。そうすると最後のゲーム内に閉じ込められることとなった人間の対比が尚の事活きてきたのではないだろうか。



〇現実と仮想(リアルとヴァーチャル)

 現実逃避という現実から仮想へのベクトルが、最終的に仮想が現実に降りてくるという逆転するカタチに収束させたのはおもしろい。しかし青年期における葛藤を描きたいなら結局これは現実逃避と変わらないのでは?と捉えられてしまうのでナンセンスだと思う。

 原題が「GAME Therapy」であり、フランチェスコが仮想に浸ることでジョヴァンニとの繋がりを築くという動機と、ジョヴァンニがそれに伴いリア充シフトしていくという2人の対比で逆転までのプロセスはわかるが、ここをはっきりいじめっ子含め描いてしまうとジョヴァンニの葛藤を軸に描いた意味が薄れる。現実に向き合うというところでだ。そもそも「現実とは何か?」というところからの発展なのだろうが、先ほども書いたがこれでは逃避と同じである。せめてジョヴァンニの疑問符だけで終わらせておくべきだっただろう。


 しかし言いたいこともわかる。世界を支配したいからとゲームを製作していた男ホールデンは言う。ゲームの世界では現実の法律が適用されず、そのゲームの支配者こそが世界を支配することになる、と。

 今日の現実と仮想とで明確な境界がある社会においては何を言っているんだと思いきや、それが曖昧となった世界を思い浮かべるとどうだろうか。「現実>仮想」が「仮想>現実」へとシフトした世界。現実より仮想を選択した者が多くなれば、世界の実権を握ったも同じことにならないだろうか。

 そしてジョヴァンニの「これで4人になった」との台詞。これは元々2人でやっていたことからの広がりを意味しており、現実逃避として内に閉じこもりがちだった者が、仮想を現実に落とすことで外に(輪と言う)広がりを見出すということで。要は独りでやっていたゲームに仲間を引き入れていく、増やしていくということで。最初のゲームマスターにて示された内に閉じこもることで満たされる支配欲との決定的な違いを意味する。

 ここでおもしろいのが、この広がりを究極的に広げていけば現実世界において支配者になれるというところで。アプローチの仕方は異なれど究極的に辿り着こうとしているところ、正確には辿り着くことができるところが同じになるのである。ただここで見つめるべきは到達点ではなく、そのアプローチの違いというところであって・・・

 世界を支配するという目的を持った孤独な男ホールデン。ゲームの世界に閉じ込められ独りだった男。誰にも知られずにゲームの世界を彷徨っていた男。では支配欲とは孤独において満たされるものなのかどうなのか。

 それに対してフランチェスコはどうだったか。現実に俺の居場所は無いと言い、ホールデンと同じ道を辿ろうと1つの選択をしたわけだが、劇中どちらかと言えばフランチェスコよりも彼の唯一無二の親友ジョヴァンニがひたすらにフィーチャーされている。そしてラスト、助け出そうとしてかはたまた輪を広げようとしてか、ジョヴァンニの姿が描き出されている。

 つまりホールデンとフランチェスコとは相通ずるモノがあり同じ道を辿ろうとしたわけだが、彼らの道を分けた(分けようとしている)決定的な要因はというと、ジョヴァンニの存在にあるということである。彼をゲームの世界に存在していると認知している存在。彼の(ゲーム世界からの)呼びかけに答える存在。唯一無二の親友。これを決定づけたいからこそ、ジョヴァンニのドラマ部分をフィーチャーしており、現実と向き合うという面でジョヴァンニだけでなくフランチェスコにも適用されるとして描こうとしている。

 ただ・・・、ジョヴァンニは自らのいる世界と向き合うことを自覚し、その世界にフランチェスコはいないとしてもう一件があるのだろうが、現実と仮想という世界をここに至るまでに定義しきれていないので混乱してしまう。

 現実逃避したことでゲームも現実も同じだとしてジョヴァンニの目線で向き合う覚悟を決めたのか、向き合った結果フランチェスコを引き戻そうとしているのか、現実と仮想とが実際に世界的社会的にもうすでに曖昧になったと観せたいのか。

 2Pから4Pになったという家庭用ゲーム機の変遷も掛けてるのかね? 今やオンラインで最大何人プレイが可能なのか?

 ここの説得力を持たせるために、だからこそゲームへの干渉度合いをもっと凝ったモノ、フェティシズムを追求したものにすべきだったのと、リア充シフトのジョヴァンニの現実を逆に生々しいものにすべきだっただろう。

 才能やこだわりが見える反面、それに追いついてこないものが多いのが何とも勿体無いと感じる。


〇最後に

 「マトリックス」や「イグジステンズ」よりももっともっと一般化したガチな作品が観てみたい気もするのだが、このクオリティだからこその良さもあるのかもな。「トロン:レガシー」みたいになられても困るし・・・

 ではでは・・


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