モーガン プロトタイプL-9 (2016)

2019年12月19日木曜日

2016年の作品 ジャンル:SF 製作国:アメリカ

t f B! P L


~人間らしさとは何だろうか~


〇はじめに

 ハイルヒドラ!



〇想起する作品

 「スピーシーズ」
 「スプライス」(2008)
 「エリザベス 神なき遺伝子」(2014)


〇こんな話

 より人間的とは何だろうか?



〇人間らしさ

 正と負の歴史が人間には混在している。そもそもその正と負の定義や尺度というものが必要ではあるわけだがそこは各々に委ねる。その中でいったい人間らしいとは何を指すのだろうか。とある者は人間の歴史は戦争の歴史だと言う・・・



これがこの作品の問うてるところなのよね・・・


 モーガンという存在は人間の能力を究極に高めた存在だという。ではその能力の中でいったい何が優先され何が突出するのが人間としてより人間らしいと言えるのか・・・



  モーガンという存在を捉えていく上で、まず我々はリーという存在を通すことになる。彼女は如何なる状況であろうとほとんど表情を変えずに冷静沈着に事を判断しまた事に当たる。モーガンという存在を判断する上で、事前に資料を読み込みさらには理解し、モーガンという対象独りだけでなく彼女に関係する研究員という周辺人物からも情報を入手しようと試みている。外堀をひたすらに埋めて事態にアプローチする。全体から個を判断しようとしているわけだ。

 それを踏まえモーガンが何故暴走したのかを考える。正確な情報を得ていなかったからである。一面的な情報しか捉えていなかったからである。研究員たちはモーガンを家族だと捉えていたわけだが、組織というしがらみから一時はモーガンを突き放す。彼女の能力からすれば事の真相にたどり着くことはそう難しいことでなかったはずだが、なぜそれができなかったのか。感情の昂ぶりがあったからである。冷静に事を見定める状況に無かったからである。


 ざっくりとは人間らしくあろうと感情を抑えていたモーガンと、人間らしくあろうと感情を表現しようとしていたリー。家族として育てられたモーガンと、ただただ隷属するように育てられた?リー。ってなところになるのか。感情に関する部分は逆かな。

 苦しんでいる鹿に介錯をしてやるモーガン。苦しんでいるリーを見逃すモーガン。必死に抵抗するモーガンを容赦なく殺すリー。

 自らを守るために暴走したモーガン。唯一人自らの味方と判断した人間は殺さなかった。片や任務を完遂した後どちらかと言えば自分側の人間をも撃ち殺すリー。意にそぐわない者は全て排除という面は共通しつつ感情を暴走させて尚殺しという衝動を抑えた(信頼していた人間を守った)モーガンと、エイミーへの嫉妬?という感情をやっと露わにしたことで殺しを行うリー。

 独り歩きする人間らしさというものをベースに両者の対比をひたすらに観せられ、ファーストインプレッションからラストへ向けて彼女たちの見え方はどのように変化していったか。はてさてどちらが人間的だったのか。人間に希望を与えるものだったのか。

 人間とは・・・、人間らしさとはいったい・・・



〇最後に

 ケイト・マーラ「ファンタスティック・フォー」からツボなんだよな。


 ではでは・・・

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