インビテーション (2015)

2020年2月10日月曜日

2015年の作品 ジャンル:サスペンス 製作国:アメリカ

t f B! P L



~信仰信用信頼~


〇はじめに

 映画だからという後ろ盾により起こるべくして起こる事象は許容したいが、どうもこの作品を理解させる上で張り巡らされている伏線とやらが唐突に感じてしまう・・・


〇想起する作品

 「サプライズ」(2011) 
 「ザ・レッジ 12時の死刑台」(2011)
 「アナザー」(2015)


〇こんな話

 一緒に苦しみから解放されましょう!


〇信頼

 パーティにおける不穏な空気は絶妙で、集団において個はどのように存在できるのかという心理はうまく醸し出されている。

 例えば地毛を強調している人間の髪の毛が明らかにズレているとする。本人は周りにカツラだと気付かれていないと思っており、周りはカツラだと認識しているという前提がある中、そのような状況になったらあなたは指摘できるだろうか。敢えて指摘して空気を悪くするよりも、本人が気付くのを待とうと知らん顔を貫こうとしないだろうか。しかもその場では気付ず余所で…となるのがベスト。

 集団の中において何かしらおかしいとは感じつつもそれに独りもしくは少数で異を唱えることができるか。場の空気を壊し且つ自らもしくは誰かのポジションを失う危険性を伴ってまでも。居心地は悪くともただその一時我慢すればその場をしのげればというようにただただ取り繕う動きをする人間が描かれている。それは損得勘定が働くからであるが、何よりこれからという将来の関係を考慮してのことである。逆恨みなんてされたら堪ったもんじゃない。

 こういった場の変化に乗じて楽しくはないけれど楽しめる様に楽しいことを見つけようとする忍耐や努力は大事な処世術でね。そんな集団における個の在り方…体裁を保つ心理も働き、明らかにおかしい連中がいるわけであるが、その連中に抱いていた違和感が主人公という個に向けられ始める様は見事。社会的に見ればカルト集団がマイノリティであるが、この場では一瞬にして立場が逆転する。

 我々鑑賞者はこの展開から信用をどこにどのように置き、どう移行していっただろうか。違和感に核心が持てたかどうか。異を唱えられると思ったかどうか。


 コヨーテを介錯してやるのと、カルト信者が謳う一方的な苦しみからの解放とは何が違うのだろうか・・・ いずれ死にゆくモノをわざわざ今殺してやるという慈悲。

 単純にカルトを否定するというよりは、カルトじみた思想は誰しもが少なからず抱いているよというお話なんだよね。方法はどうあろうとそれに救われる(救われた)人間はいるわけで。救われる云々というのは結局は自身に委ねられるというか傍から見たら自己満足や逃避に過ぎないわけだけどね。


 我々鑑賞者が抱いた集団と個の信用というものや、カルト信者の異常なまでの信仰心。これらは全て一方的な思い込みによるものであることに気づかされる。ラスト2人が手を取り合う画で終わるわけだが、これはその信用や信仰というものに対しての、想いの双方通行である信頼というものを描いているのではなかろうか。

 人間は苦しみから逃れようと何かしらの方法をとってきたわけであるが、一方的にあなた方は苦しんでいるとして介錯させるやり方と、共感することで苦しみを分かち合い共に生きていくこととでどちらが・・・


〇最後に

 胡散臭さが見事だよ。嫌なこと、間違っていることにははっきりとNOをつきつけましょう。

 ではでは・・・

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