~タイムパラレルパラドクス~


〇はじめに 

 時間という概念がこの作品の理解への道をひたすらに邪魔をする。訳がわからない・・・ 「プライマー」や「ランダム 存在の確率」に耐えられた人はチャレンジしてみてはいかがか・・・ おそらく一番近いのは「プリデスティネーション」だと思われる。


〇想起する作品

 「12モンキーズ」(1995)
 「ザ・ワン」(2001)
 「CUBE2」(2002)
 「プライマー」(2004)
 「サウンド・オブ・サンダー」(2004)
 「デジャヴ」(2006)
 「トライアングル」(2009)
 「ミッション:8ミニッツ」(2011)
 「オブリビオン」(2013)
 「ランダム 存在の確率」(2013)
 「嗤う分身」(2013)
 「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(2014)
 「プリデスティネーション」(2014)
 「リジェネレーション」(2015)
 「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」(2016)


〇こんな話 

 タイムトラベルから眺める多元宇宙論と恋愛方程式。



〇タイムパラレルパラドクス 

 時系列の整理に関して紙に書くように二次元に表そうとして理解しようするのがこういったタイムトラベルものへのアプローチの基本であろう。時間を揃え、同じ時間を分割させることで起点(基点)と終点となるものを繋ぎ合わせ時系列を整理していく。ざっくりとはあみだくじを作る感じだ。この思考がひたすらに理解を阻害する。というよりこの思考で臨んでいたからこそ後々の整理が追いつかなくなるとしておこうか。ここは注意されたし。

 同じ時間軸を行き来し現在の自分と未来の自分とがループしているわけではなく、多元宇宙における自分という存在が入り乱れた(別次元の宇宙にそれぞれに干渉した)というお話で・・・

 同じ時間軸だという前提に組み上げたあみだくじが崩れ去る。噛み合うはずだった受け入れスペースにピースがハマらない。しかも多元宇宙を分割した時間軸で代用できない。だからといって多元宇宙の存在まで整理するスペースが無い、そんな余白は作っていないと脳内及び現実の紙面の前で我々は立ち尽くすことになる。いったいどことどこを照らし合わせればいいのか、組み合わせればいいのか、噛み合わせればいいのかと。いやそもそも二次元にそれを表現し整理するのは無理なのではないかと。

 だが心配する必要は無い、そんなに難しく考える必要は無い。これはその噛み合わないものではなく、ひたすらに噛み合わない中で噛み合ったものを見つめればいいのだ。タイムパラドクス、多元宇宙の中で展開された物語で唯一どの世界においても噛み合ったもの、巡り合ったものはいったい何だったのか。

 そもそもピッタリハマるようにできていない。というのも扱っている事象が無限であり、その次元の宇宙に存在できる自分という存在が何人までと定まっていないのである。Aという次元の自分がBという次元に移動した結果、Bという次元の自分がCという次元に移動するという関連性や法則があるのではなく、AとBの次元における自分がCという次元に移動するってのも起こり得るし、それはAとBには自分が行かないということを意味してもいるわけだが、それは有限の世界における思考であって・・・

 え~、どうしても過不足が気になるかもしれないが、この辺は割り切る必要がある。

 助けになるかはわからないが考え方として・・・


 最初に行われる実験にて指示する者と実行する者の間でハンドルを回す方向に関して揉めている。左右がわからなくなり間違えてしまうとしているわけだが、この右や左というのはどこを支点とするかを定めない限り定義できず究極は逆になってしまうことを、指示者と実行者とを隔てることで描いているのである。この場合実験機器のハンドルを正面に見ていたことで左右の定義は同じ方向として定まるわけだが、仮に実験機器を2人が挟んだ状態だったら左右の定義はどうなっていただろうか。左が右に右が左に左回りが右回りに右回りが左回りに・・・ これがパラレルワールドの差異への誘いである。

 宇宙に上下左右の概念を構築するのが難しいのだが、地球をベースにすることで少し展望を。太陽系というものをある方向から捉えた場合にそれぞれの惑星の公転が全て同じ向きで行われているのに対し、自転方向はというと金星だけが逆を向いている。天王星(冥王星も)はまぁ置いといて・・・ これはそのまま自転方向が逆とも捉えられるし、自転軸が他の惑星とは逆になっている(傾いている)ってことにも落ち着けられる。公転の向きを定めたことで自転方向を眺めるのと、自転方向に関してのみ言及するのとで自転方向は異なりも同じにもなる。

 太陽を操る件があるからそちらの方が良いか。天動説と地動説だ。地球から見るとまるで太陽が地球の周りをまわっているように見えるわけだが、宇宙から見れば地球が太陽の周りをまわっている。語弊はあるがどっちだって構わないわけだ。要は見方の問題、定義の問題。この見方(観点)や定義(前提)によって同じようにも違うようにも見えるってなお話で。

 これがそれぞれのパラレルワールドが似通っていて違いに気づきづらいというお話へと繋がっていくわけだが、そんなの意識せずにこちらはタイムパラドクス前提で見ているわけだからわけわからなくなること必至。

 ただ先ほども書いたがこれは噛み合わないものではなく噛み合うものを見つめる作品であるのでそこまで難しく捏ね繰り回す必要は無いだろう。

 電気(送電システムに関するもの)という発明に関し、ニコラ・テスラとエジソンとが話題に上がっていた。ニコラ・テスラは技術を無償提供しようとしたが、エジソンは利益を優先し特許をとったのだとか。これはどの括りで見るのかというお話で。人類の繁栄と自己の利益と。この衝突こそが科学を発展させ衰退させていることに目を向ける。

 わかりやすくも惚れた女に対し本能に忠実に行動する主人公が描かれている。彼は本来人類のためと豪語し研究していたわけだが、その目的はどのように変わっていったのか。研究をしようにも金が無い。投資家を頼るしかないという現状。科学者と投資家の対立。そしてアビーという存在の出現。それによる主人公自身の研究の目的の変化。これがそのままニコラ・テスラとエジソンの話だろう。

 科学か愛か。科学の発展による人類の繁栄(破滅)か目の前の愛すべき女の(女との)幸せか。幸せの大小というより、1人の愛すべき存在を幸せにできなくてその他大勢の人間を幸せにできるのか?ってな話に落ち着くんじゃないかな。


〇最後に

 どうしてもこの手の話は肩を張って観てしまうわけだけど、複雑なほど意外と描こうとしていることは単純だったりもするんだよね。単純なものを際立たせようと周りを複雑にしているだけで。いやまぁほんとにカオスな作品はあるんだけど。これは割かしまやかそうとはしているものの素直な作品なんじゃないかな。

 ではでは・・・


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