ロッジ LODGE (2014)

2019年9月30日月曜日

2014年の作品 ジャンル:SF ジャンル:ホラー 製作国:アメリカ

t f B! P L

~目を逸らすな~


〇はじめに

 これホラーっていうよりSFというジャンルでよくやるお話だよね。というよりSFとして観た方が良いしジャンル分けした方が良いと思う。


〇想起する作品

 「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」
 「マトリックス」シリーズ
 「リーカー」シリーズ
 「キャビン・フィーバー」(2002)
 「リセット」(2010)
 「ザ・エンド」(2012)
 「ザ・ループ 永遠の夏休み」(2012)
 「リメイニング」(2014)
 「レフト・ビハインド」(2014)
 「リメンバー・ミー」(2017)


〇こんな話

 我々の存在とは何なのか…?




〇瞬きの如く

 人類の歴史が地球の歴史や宇宙の歴史に対してどれほどのものなのだろうかとカレンダーの様にして見せることがある。1年間に置き換えて人類の歴史はたった数秒。コンマ何秒すらなく文明は起こり滅んでいく。では人独りの人生は如何ほどだろうか? 瞬きの間すら無い人独りの人生…

 たった独りいなくなったって社会は廻るし世界は廻る。現に年間でどれだけの人が亡くなっているのだろうか? 人だけではない、人類以外の生物が数多の生死のサイクルを繰り返しているにも関わらず、そんなことなど知らずとも意識せずとも世界は存続している。亡くなったモノたちの未来を摘んで尚、彼らの記録や記憶が失われて尚世界はどこかへと向け動き続けている。では、無くなったモノたちの存在とはいったい何だったのか? 何の意味があったのか? 

 いずれ人類という種も滅びるだろう。人類がいたという記録を記憶を残すモノがいなくなる。人類がいたという痕跡を観測するモノがいなくなる。人類が存在していた記憶がない世界においては人類は存在していなかったことになる。人類が認識していた世界というのもまた無いことになる。では今我々が認識している世界とはいったい何なのだろうか? 我々人類の存在にはいったい何の意味があるのだろうか? いやそもそも存在しているのだろうか? どうやって存在を証明できようか?


〇観測者

 とある一行がロッジに辿り着いたもののそこには人っ子一人いない。しかし誰かはわからないが、確かにそこに誰かはいたのだ。しかし今はいない。


 では、なぜ “誰かが存在していた” ということが言えるのだろうか?

 まず、フライパンが火にかけられているこの場面を見ていただきたい…


 ものすごく熱い状態で存在していたことが結果として明らかとなるが、それは触れてみなければわからなかったこと。


 彼が触れてみて初めてフライパンの熱いという状態が確定したのだ。彼にとってフライパンは熱かったってだけのことなのだが…


 次にこれらのメッセージ。













 誰かしらに向けて書かれている様に見えるが、それに気付く者がいなければ何ら意味はない。メッセージとして受け取る者がいなければ、それはメッセージとしての意味を為さないどころか、存在してすらいないことになる。


 女性が男性に話題を切り出せないでいる妊娠の件もこれ。女性のお腹の中には確かに命が宿っているが、男性はそれを知らない。女性にとってはその命は確かに存在するが、男性にとっては存在していないも同じ…


 車の中での小便inペットボトルからのポテトチップス手渡し事件だってこれ… 

 知らなければなんてことはなかったおいしいポテトチップスが、イチモツだけでなくもしかしたらかかっているかもしれないその手で渡されたのかと思うだけであら不思議… 

 そしてその行為を知らない人間にとってはペットボトルの中身がリンゴジュースにだってなる。

 これらを踏まえ始めの問いに戻ろう。

 なぜ “誰かが存在していた” ということがわかったのか?

 そこに人が存在していた痕跡があったから、というだけでは実は人が存在していたという事実は確定できない。その痕跡を観測する存在、痕跡からそこに人が存在していたと認識する存在がいて初めてそこに人が存在していただろうということが確定するのである。

 観測者がいて初めてそのナニカの存在(状態とも…)が確定するのである・・・


〇存在

 では、観測するモノが無かったらどうだろうか?

 誰かが存在していたという痕跡を観測できなかった場合、その誰かは存在していたと言えるだろうか? 

 例えば身近な人間はどうだろうか。一緒に過ごした時間、共有した時間においてその人間の記憶というものが宿っている。その人間が存在していた痕跡は物理的には観測できないが、観測者の記憶にそれが宿っていればその人間が存在していたという確たる証拠となり得る…

 本当にそうだろうか?


 ロッジに訪れた御一行は見舞われている不可解な現象を確定させるために事態の調査を開始したわけだが、そこで晒されたのは何だったのか…

 有り得ないとする数々の現象との遭遇。これ即ち今までの常識の否定である。それは彼らが生きてきた世界の否定、究極は彼ら自身の否定である

  この当てにならない、ならなくなった知識や記憶を確証に存在を証明できるものだろうか?

 そもそも観測者の存在は如何様にして定められるのだろうか・・・


 血のめぐりに暖かさ、痛みという実感は確かに自らの身体がここに存在しているという証拠と成り得る。


 しかし劇中の消失は人体のみならず体外に放出された血液さえも消し去っていた。痛みを感じたはずの身体は存在せず、そのヒトが痛みを感じただろう血痕という痕跡もまた無くなる。この場合どうやって存在を証明できるだろうか?

 そもそも痛みとは何だろうか? 流れ出る血とは何だろうか?

 ロボットは生きているのか?という問いで扱われることがあるのだが、この現象は単に体に傷をつけた場合にそのような反応が示されるというプログラムの確認に過ぎない。

 そのプログラムが組み込まれた状態でついさっき誕生したとも考えられ、これまで何年何十年と人間として生きてきた結果ここに存在しているという過去及び歴史の証明には成り得ないのである。今この瞬間の意識以外何の証明にもならないのである

  快楽・・・


 人肌の温もりを感じる、互いに愛し合うという行為は・・・

 愛という不明確なモノが核心に近づきそうにも想えるのだが、そもそもこの恋愛感情というものは性衝動の正当化に過ぎず、愛情という感情も結局は種の保存のためのものに過ぎない。これは生まれながらに組み込まれているもので…、上に同じ。

 我々が何かを感じたところでそれは自分という存在を定める証拠とは成り得ない。そしてそんな不明確な存在が認識するこの世界の実在もまた同様である…

 観測する痕跡の消失…、観測者の不在…、

 痕跡無くして、観測者無くして、そのモノの存在はどのように確定できるのか? そしてそれは存在していると言えるのだろうか?

 しかし何と言おうと今ここに意識は在る。これはいったい何なのか?


〇罪

 オチはなんでも良いんだよね。超自然現象でも神の御業でも宇宙人の仕業でも。要は今ある日常や常識を覆すことを見せることができれば良いってだけで・・・

 “Dont blink” が “瞬きするな” と終始訳されてるんだけど、これっておそらく “目を逸らすな” という意も含んでるのよね。“見て見ぬふりをするな”と。

 上で“存在”というものに関してハチャメチャ書いたけど、そういった見方をすれば人類ってどう頑張ったってちっぽけな存在でしかない… さらにはその中のたった独りともなれば尚更尚更… 

 人間って様々な事情から何かとルールを定めて生活しているわけだけど、そのルールを全ての場合に適用する必要があるだろうか?と疑問に駆られる時がありませんか…?

 例えば、人っ子一人おらず車も見渡す限り一台も走っていない交差点で赤信号を守る必要があるだろうか?…と。

 誰も見てない、誰にも迷惑はかからない。そんな状況でわざわざ自らが不利益を被る必要があるだろうか?

 たった独りルールを破ったくらいでへったくれもないでしょうよ… とある人はこういった行為を融通を利かせるとして正当化する。

 劇中出てきた殺人ビデオテープの話に少し置き換えてみよう。

 誰にも知られていない、必要とされていない、死んでも誰にも迷惑がかからない人間がいたとして、その人間を殺すことは果たして罪になるだろうか?

 では、その人を殺しても殺した痕跡が残らない、殺したという事実が残らない、殺された対象が存在していたかどうかさえもわからなくなればどうだろうか?

 そして殺したという実感を持つ自身さえも消え失せるとしたら??

 「エンド・オブ・ザ・ワールド」(2012) だったかな。世界の終わりがすぐ目の前で確定している世界において、1人の警察官が職務を全うしているのよ。問いたいのはそういうところだよね。

 現状人類皆同時に死ねる様な世界の終わりは定まっていない。個々でいつ誰がどのように死ぬのかもわからない。しかし遅かれ早かれ誰にでも平等に死というものは訪れる。確実に死ぬ。そして忘れ去られる。これって劇中見舞われた現象と同じ事で。

 そんな世界で勝手に定められたルールを厳格に守って生きる必要が果たしてどこにあるのだろうか?…と。

 ルールを破ったところで、罪を犯したところで、未来永劫その罪が残り続けるかと言えば、それを記憶する者また記録するモノがなくなればその罪は存在しないも同じと言えるかもしれない。所詮人間が人間に対して勝手に構築した枠組みに過ぎないのだから。

 しかしそういうことなのか?…そういう問題なのだろうか?…と

 絶対的に定められた人間の時代の終焉がある以上人間間でしか共有できない意識に本当に意味は無いのか?

 何と言おうと今我々の意識はここにあり、存在しちゃってる。どうしたって生きちゃってる。これに意味は無いの?? 

 ・・・、疲れた。

 こういった事象に関し問題提起ができるってことが我々の存在に少なからず意味をもたらすのではないだろうか。


〇最後に

 考え過ぎると鬱になりますからね。注意が必要です。

 ではでは・・・




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