~再生の物語~
〇はじめに
平山あやが入ってるな。
可愛い
〇こんな話
風のたより、はじめます。〇再生
対称的な2人であるとする描き出し方はとてもストレートでわかりやすいし素敵だった。ペンキの塗り方に、
物の食べ方に・・・
互いに端っこからペンキを塗ったり、レンガ?を築き上げて行ったり、互いに背を向けながら食事をするというのも、段々と同じ所に向かっていくという作品の方向性を指し示す。これは再生の物語であると。
ただこの場面が気になった。包みのたたみ方というのかな・・・
剥き出しに対して隠れているというだけでもいいのだが、細かさという面を観せたいのであれば中に入っている物に対して包みは一回(以上は)折るよね。直接外に通じないように。それか何かにしまうとか。ここは2人のイメージを一番に印象付けるシーンだったのでもっと気を遣ってほしかった。間というものを図り兼ねているという意味合いはすごくよくわかるんだけどね。
〇自分
佐生雪のキャラって単純に人付き合い(コミュニケーション)が苦手なだけなんだよね。正確には人付き合いをする上で自分を表現(アピール)するのが苦手。故に他人との距離を測りかねている。まぁこれが複雑なんだけど・・・というより致命的だったりする。その人間の全てを見ている余裕が無い以上、見える範囲で(部分的に)その人間の評価が行われる。その見える範囲というのが判断する者の活動範囲(許容範囲)なわけだから、その領域において良い印象が与えられればそりゃ良いってことになるよね。それが人と合うというお話で。これを自然にできるのか、意図的にやるのかはその人のセンスであり、その弊害はまた別のお話になるが・・・
おじいちゃんがコーヒーを入れるところから作品は始まる。コーヒーの入れ方にも手順やタイミングってものがあるわけでね。私なんかは別に缶コーヒーやインスタントで一向に構わないが、そのコーヒーの旨味を引き出すことを目的としているのならばこの要素は欠かせない。焦らずじっくりと待つという工程、一手間二手間と手を加えるということを大切にする。そして何よりその香りや味を味わうということである。
ここをベースに佐生雪と何でも否定的に捉えてしまう平山あや似の新木優子とが二人三脚で歩んでいく様を見守ることになるわけだが、この凸凹感が醸し出す何だかんだうまく行くんじゃないかという連帯感が堪らないんだよね。人には人のタイミングが存在する。人には人の良さがある。人を見る、感じるというところを再認識できる良い作品だと思う。
〇余談
カフェとかあんまり行かないというかほとんど行ったことが無いんだけど、これってどうなの? ワンプレートの流行りや色合いはわかるけどこれを食べにくるリピーターがいるかどうか。このカフェならではの看板となるのかどうなのか。
まぁそれにガッツリ行きたい人はカフェじゃないよな行くの・・・
あと気になったのが全体的に画が白過ぎるんだよね・・・ 別に構わないんだけど・・・
〇最後に
佐生雪良いねぇ~。ただ本人はあまり細かい人ではない気がする。ではでは・・・
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