ワールド・コード 陰謀の支配者たち (2012)

2020年5月13日水曜日

2012年の作品 製作国:カナダ

t f B! P L

~陰謀論と創造論~



〇はじめに

 陰謀論大好き寄っといで(ニッコリ)


〇想起する作品

 「フィフス・エステート/世界から狙われた男」(2013)


〇こんな話

 この世は、この社会は誰かしらに仕組まれたものである。



〇陰謀論に創造論を見る

 この世の起源を神に見出す創造論なるものが存在する。進化の果てに得られた偶然の産物とは思えない複雑な機構を持つものを理解する試みの1つだ。それが言うには生きとし生けるものは神にデザインされたものだそうな。設計者がおりそれを組み立てるといった具合に。

 しかし全ては偶然ではないとするが故に創造論は墓穴を掘る。如何に精巧に作られたものでさえデザインされたものであると肯定していること即ちデザイナー(神)とするモノもまたデザインされたモノということになってしまうのだ。我々をデザインした神もまたデザインされたものなのだと。神をデザインしたものがいるのだと。そしてそれはまた神をデザインしたものにも適用されてしまう。ではその神をデザインしたものは一体何者なのか。ではではその神をデザインしたモノは一体誰がデザインしたのか。天井が見えなくなるのだ。

 では陰謀論はどうか・・・、陰謀論にもこれと全く同じことが言えるのではなかろうか。

 その事象・現象はたまたま起きたモノではない。偶然ではなく誰かしらが仕組んだものであるとする陰謀論。誰かしらが企んだとして原因を突き止めるわけであるが、それもまたその誰かが偶然に思いついたわけではなく仕組まれた陰謀だということにならないか。それを企む上で別の企みが必要となるということだ。その別の企みはまた別の企みに・・・ 果たしてどこまで陰謀が存在するのか、陰謀と言えるのか、・・・   

 胡散臭いものがより一層胡散臭くなるラストの畳み掛けは強引というか製作者の希望及び逃避と見えるがそれもまた味だ。陰謀の連鎖や果てしなさというどこからどこまでがという距離を測らせないことがこういった作品の面白味というか企みなわけだが、嘘だという方向に振り切られ過ぎることでいやそんなに嘘で塗り固めるということはその中に実は真実が隠されている、隠そうとする企みが働いているのではないかという猜疑心を刺激し始める。この作品はその曖昧さ不確かさというところをうまく醸し出している。面白かった。


 あと陰謀論が盛り上がり始めた要因ってのは想起する作品にも挙げたが第四の権力としてのジャーナリズムの台頭があるんじゃないかな。その次の段階が来ているとその作品では述べられていたが、国民一人一人が知る権利を有するという方向に動き出しているわけでね。情報社会において何を知るのか、知った気になっているのかという問題点が陰謀論として表出しているのでは?


〇最後に

 最近陰謀ネタめっきり減った気がするけど気の所為かな? まぁ最近テレビ観てないというのもあるがね。

 ではでは・・・


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