~屠畜~


〇はじめに

 いわくつきの事故物件の話はどこにでもあるものなのか・・・ 勝手に日本だけのものかと思ってたAHAHAHA


〇想起する作品

 「ホーンテッドマンション」(2003)
 「リーピング」(2007)
 「シェルター」(2010)
 「11:11:11」(2011)
 「呪怨館」(2014)
 「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」(2018)


〇こんな話

 意味がわからねぇ・・・



〇犠牲

 事故もしくは事件によって不慮の死を遂げた者たちの魂を糧とし何かが成し遂げられるのならばその犠牲に意味がもたらされある種救いを見出すことができるわけだが、それが仮に意図して起こされた事故であり事件であったとしたらまた見え方が変わってくる。...様にも想えるのだが。


 ジュリアは不動産記事の担当であるが、それよりも人の死が絡む事件記事で名を上げたいと憂いている。ピューリッツァー賞を狙うのだと。

 しかしいくらその新聞記事が素晴らしかろうと、事件記事は犯罪が起きなければ人が死ななければ書くことはできない。つまり彼女は人の命を肥やしにしようとしていると言える。

 彼氏もしくは旦那候補のグレイディは刑事であり、何かと主人公の助けになってくれる。

 しかし彼は元カノを傷つけてまで彼女に入れ込んでいた様で...。刑事という職業もまた大まかには事件が起きなければ必要とされない存在であり、彼もまた人の命を肥やしとしている。

 姉夫婦は互いの夢を諦めて尚家族という形態を維持しようと努めている。彼女の甥はドナー待ちの患者だそうで、誰かしらの臓器提供無しには生き永らえることができない。

 全て何かしらの犠牲の上に成り立っているものである...

 何かを得るために何かを犠牲にするってことを人は常日頃から行っていて。そしてそれを維持・存続するためにまた何かしらを犠牲にし続けていて。


 この文言は家を持ったことでそのしがらみに囚われるってな話なわけだよね...多分。犠牲の上に成り立つモノ。それを持ってしまったが故に持ち続けようとする限り何かを犠牲にし続けなければならないモノの象徴としてある家。

 あとは家という括りをどの規模で見るかってのもあるのかな? 部屋...家...ムラ...国...?


 神は時として殺しを肯定する。動物は人間の糧となるものとして殺していいものと定めたそうだが、教祖クローンと愉快な仲間たちの活動ってのは、神が肯定する殺しの1つとしてある屠畜の構図と何ら変わりはないといった見方もできるのではないか。

 宗教という気休めにより罪悪感を軽減しそれを妄信する信者と彼らとで何ら変わりはないのだと。いやその犠牲に目を背けている者そして向けなくなっている者たちよりも幾分かマシではないかとさえ思えてくる...? 自分たちの“家”のためには犠牲が必要であることを盲信させられているに過ぎないかもしれないが、彼らは自らの手を血に染めているのだから。

 不幸の上に成り立つ幸福、救いの裏にある犠牲...誰かの幸せの背後にある虐げられる存在...というところを暴き出そうとしたと私は捉えたがどうだろうか?

 これが「怒りの葡萄」へとリンクする・・・のだろうか?

 新聞記者と刑事という役職は、真実を解き明かす力のある者そしてそれを世に知らしめる者とする意味もあったのか...?


〇最後に

 この監督の作品は毎度ようわからん。

 ではでは・・・


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