~1つの事件~


〇はじめに

 ハングマンゲームなんてあるんだ。難しそう…



〇想起する作品

 「SAW」シリーズ
 「セブン」(1995)
 「デス・サイト」(2004)
 「マインドハンター」(2004)
 「88ミニッツ」(2007)
 「消えた天使」(2007)
 「ブラックサイト」(2008)
 「ロスト・ボディ」(2012)


〇こんな話

 1つの連続殺人事件とその中の1つの事件。警察にとっての数ある事件の中の1つと、被害者当事者にとっての唯一無二の事件。



〇1つの事件

 警察と民間人との間で緊張が高まっているとする中、とある記者が警察の実態を伝えようと、両者の架け橋となるべく取材を申し出る。この警察という組織にどっぷり浸かった謂わば偏見のある2人のベテラン刑事に対し、自称公平を貫く記者という存在の配置は、刑事の目線や言葉だけでは補えない部分を補完し事件を紐解いていく上で功を奏しているわけだが、後々明かされる取材の動機からこの行為が中立な立場によって図られる両者の仲介では決してなく、実は警察に寄り添ったカタチでの民間人へのアプローチであったというのが今作の肝だろう。事件の真相というのがこれとは真逆のアプローチであったのだ…


 1つの事件と1つの事件との間に共通項が、そして連続性(法則性)を示すものが見出されて初めて連続殺人事件は成立しうる。これは言い換えれば、事件が複数(…最低2件…いや2件だけだと可能性で終わるかもしれないから…最低3件以上…)起きなければ連続殺人事件かどうかは断定できない、ということである。

 そして連続殺人事件であると断定できたことで、事件を未然に防ごうと試みるわけだが、突発的衝動的事件とは異なり連続殺人事件ではこれが可能となる。ここから明らかになるのは、被害者が出たことによって未然に犯行を防ぐことができる(かもしれない)というジレンマである。犠牲があったからこそ救える命がある。


 刑事である彼らにも同じことが言える。

 事件と事件とのそして人と人との繋がりを見出す術に長けているベテランの刑事と言えば聞こえは良いが、彼らを支えるこの経験や知識というものはそもそも幾重にも重なる失敗(犠牲)によって構築されたものであるとする示唆が所々に散りばめられている。

 証拠から浮上する容疑者…、事件が無ければ描けなかった人物相関図があり、いくら余罪があろうと被害者に結びつく事件がなければ浮かび上がるものではない。

 検死による連続殺人を裏付ける犯行の手口や手がかりの見極め…、これはまず死体が上がらなければ不可能であるし、医学的見地があってこそ。

 プロファイリングにより浮かび上がる犯人像…、これなんて数多のシリアルキラーが出現し多大なる犠牲者を出してやっとこさ定義されつつあるものである。

 トリックワイヤーを防ぐ件が1つ皮肉か。一度引っ掛かったからこそ次からは意識が向く。これは一度目のミスで命が奪われなかったが故の特権である。

 おそらく警部の車椅子の件もこれとの兼ね合いなんだと思う。やりとりの中でずっと彼女は座っているのだけれど、標的となって初めて車椅子であることが明かされる。

 爆弾処理班を待たずに単身乗り込んでいき逮捕する最初の場面というのはアーチャーのベテランの風格を醸し出すためであり、この時点では想像できない彼の新人時代のミス…正確にはミスではなく、ほんの少し怠ってしまった配慮への布石となっていたわけだ。


 自分が大掛かりな手術を受けることになったとして、新人ドクターとベテラン医師とドクターXとでいったい誰に手術をしてもらいたいですか?

 こぞってドクターXに決まってますよね。

 しかし誰にでも初めてってのはあるもので、誰もが最初は新人で…

 ミスによって見えてくるもの…ミスがあったからこそ見えてくる世界…

 この道を経てやっとたどり着ける場所があるわけで、見地があるわけで…  犠牲という過去(糧)があったからこそ今ある命を救うことができる。彼らの所為で救えなかった者たちがいる中で、彼らのおかげで救われる者たちがいるのだ。

 しかしそれは救えなかった命とその救えなかった命により救われたかもしれない命を蔑ろにしてはいないだろうか?…とこの作品は問題を投げかける。


 判断に支障を来すナニカを抱えている様は彼ら警察も同じ人間であることの裏付けであり、その明かされる理由から見えてくるのは彼らもまたイチ被害者でありイチ当事者であるという立場であった。

 1つの連続殺人事件とその中の1つの殺人事件、警察にとっての数ある事件の中の1つと被害者当事者にとっての唯一無二の事件…

 連続殺人事件の解決は括られてしまった1つ1つの事件の解決と同義で捉えていいのだろうか。

 そもそも事件の解決とは何だろうか? 事件の全容解明と犯人の逮捕で終止符を打てるものだろうか?

 今回起きた連続殺人事件に巻き込まれた人たちの繋がりは、連続殺人事件という括りだけで完結するモノであっただろうか?

 未だ解決を見ない事件はどれだけ残っているのか。そしてこれからどれだけ積み上げられてしまうのか。そもそも事件化すらされていない案件もまた幾多もあるだろう…

 事件に近すぎるが故に見えないモノと逆に遠すぎてもまた見えないモノがある中で、彼らはいったいどこに立つべきなのか、誰に寄り添うべきなのか。事件にどう向き合っていくべきなのか…


 身動きのとれなくなった犯人に対して引鉄を引いたのは警察としての職務か?それともイチ被害者としての復讐か?

 放置していても死んでいただろうと見るべきか、助けようとしなかったと見るべきか。罪を償う機会を奪ったと見るか、償わせる機会を奪ったと見るか。彼のとった方法は巻き込まれた者全ての総意か?…救済と成り得たか?

 警察としての連続殺人事件の解決、そして被害者の1人としての1つの事件の解決とは同義に成り得るのか。どちらを選択しようとも所詮独りよがりなものでしかなく他の当事者の声に耳を閉ざすことになってしまわないか。

 1つの事件の解決が届かぬ声の産声であることを突きつけ、その事件が唯一無二となってしまった者たちを置き去りにするものではないのかと問いかけるラストは、刑事が抱えなくてはならない抱えていかなければならないジレンマを、向き合っていかなければならない苦悩と葛藤を浮き彫りにする。



〇最後に

 オチを警官の抱えるべき葛藤として捉えたが実際どうなんだろうか? 複数犯ということも疑うべきだったか。となると「グリーパーズ・キラーズ」(2011) が近くなるが・・・

 ではでは・・・


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