~音楽という芸術の超越性~
〇はじめに
Freya Tingleyは、ティングレイなのか? ティングリーなのか?あと肩を出した方が良いのか? 悪いのか?
〇想起する作品
「ジキル博士とハイド氏」(1931)「11:11:11」(2011)
「グランドピアノ 狙われた黒鍵」(2013)
「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲」(2014)
「永遠のジャンゴ」(2017)
「さかさま少女のためのピアノソナタ」
「FRINGE」
〇こんな話
バイオリンソナタで、お金も契約もがっちり!!〇音楽という芸術の超越性
ローズは他人が完璧と称しようと、自身の中でミスだと思えばそれを是としない完璧主義者。純粋に音楽と向き合うストイックさ故に周りは振り回されがちの様だが、それを以ってしても手放したくない、また手に入れたい才能を有する若きバイオリニスト。富・名声・力に魅入られた音楽業界においてそれだけで彼女は至宝(金のなる木)である。そんな彼女の父親が偉大な作曲家マーロウときたもんだ...マネージャーはローズの父の訃報を受け、直接知らせるため急遽ベルリンから帰国。気がかりで仕方がないローズは押しているレコーディングを先延ばしにしてまで父マーロウが身を寄せたフランスへと足を運ぶ。
飛行機、タクシーと足を意識させる中で、スマホを片手にアナログ時計を調整し、屋敷の使用人やバーの店主とは不慣れなフランス語で会話。また車のハンドルの位置に戸惑ったりと、所々に国や文化、またその個人におけるギャップが散りばめられている。
音楽に従事する者たちの国を跨いだ活動への意識はもちろん、国や時代を越えて紡がれてきた、人間間に存在する様々な障壁を超越し得る音楽という芸術を際立たせていく様は見事。
ただ...
謎が紐解かれていく最中は特に気にせず観ていられたのだけれど、いざ振り返ってみると音楽の力に魅入られたが故の帰結よりも、父親の動機やまわりくどさが先行してしまうのは致し方ないのだろうか?
大層な仕掛けが幾重にも張り巡らされており、娘の境遇に始まり運に頼る部分も大きく、最終的な演奏が彼女の意志と反していたことからも、そこまでしなくても演奏させる手段なんていくらでもあったのではなかろうか?とする疑問の方が膨らんでいく。
「芸術作品は時代で判断するものではない」とマーロウは言うが、ローズが奏でるに至ったまわりくどいプロセスの際立ちは、先に述べた音楽という超越性を霞ませることになってはいないだろうか。
ゴシックホラーというジャンルや使い古された謎解きを古臭いと切り捨てるのもまた野暮ではあるが、それこそ音楽を評価する上で欠かせない歴史を物語るモノとして機能しており齟齬が生じてはいまいか。
音楽それ自体ではなく、流行に振り回される、また創り出すことに躍起になるビジネスとしての音楽との対比、またはその表と裏(光と影)にあるものを同期させる狙いがあったのかもしれないが、それまた相反するものではないか。
感性の問題なのかな・・・
いや違うのか、結局は人間の業が...てことだからこれで良いのか・・・?
0 件のコメント:
コメントを投稿