~いったいどこからどこまでが・・・??~


〇はじめに

 前作は口頭伝承による都市伝説が描かれたが、今作は映像媒体というものに焦点を当てている。


〇想起する作品

 「ザ・フェイク」 (2004)


〇こんな話

 信じるか信じないかは、あなた次第ですm9(^Д^)



〇線引き

 飛行機の機内の話かと思いきや・・・として映画は始まる。誰もがこれが本編だとして意気込んだのではなかろうか。その気概をこの作品は逆手に取る。実は映画の中で映画を撮影していたのだと。このあやふやさがこの作品の持ち味だ。


 この撮影の場面にて、当初の台本とは異なる動きを見せた女優に激怒する監督が描かれている。では当初の台本ではどうなるはずだったのか。どこからどこまでが台本通りであったのか。

 こことの兼ね合いが教授の演説である。教授の頭上で同じ文言を口ずさむ男。これは毎回同じことを話している、決まった原稿(台本)があることを意味する。この型にハマる、枠にハマるというところを犯人の動機として繋げて来たところは唸ってしまった。

 都市伝説というフィクションを題材とした映画を撮ることを主軸に、フェイク道具の数々だったり、劇中いたずらやドッキリを仕掛けていたり、どこからどこまでがという線引きをひたすらに曖昧にさせる。事前に同じようなシチュエーションに晒されているからこそ、いざというときにも迷いが生じる。

 上映会?(試写?)にて2つの映像が映し出され比較されるが、それが果たして演技なのか本物なのかという区別がつかない。サンドラの演技は酷評されるばかりだが、主人公が騙された件が存在していた。有り得る、有り得たとする可能性を知っていたからである。モデルガンと本物の拳銃の件もニヤリとした。この辺りの演出が本当にうまい。そしてくどい(笑)

 ラストシーンはさらに遊びを観せる。前作の猟奇殺人鬼がにっこりスマイルである。


 ここで最初に立ち返る。では一体どこからどこまでが真実(台本)なのか? 本当にあったことなのか??

 1作目の口頭伝承(伝言ゲーム)における改変。その話が作られた本意や意図よりも脚色されたエンタメ要素ばかりが先行するようになったのが都市伝説であると。

 これに対し、今作はリアリティを求める映画という媒体にてその線引きの曖昧さを観せている。嘘も本当のように観せることができるのだと。最初に観せた特殊効果もその1つだろう。実際に空を飛んでいなくても飛んでいる様に、飛行機でなくても機内のように観せることができる。CGがどうのという話も出ている。究極そこに何も無くとも何かがあるとして観せることが可能なわけだ。そして今作で扱われた都市伝説は、映画製作における技術的な問題も含め、どこまでが可能なのかどうなのか。

 この作品から眺めるべきところは、ただただ有り得ないだろうとすることではなく、もしかしたら・・・、万が一・・・、いや万が二、有り得るかもしれないという、ほんの少しの可能性及び兆しというところにある。その可能性というところに期待(希望)を覚え、そして恐怖をも覚えることがある。

 例えばホラー映画に付き物の刃物。ナイフでも包丁でも針でも何でも鋭利な何かを思い浮かべてもらえればいいが、それは本来どういった用途で用いられるものなのか。私は軽度に先端恐怖症であるため、それが自らに刺さるというイメージが先行する。使用法を誤らなければとある分野にて絶大な効果を発揮する代物が、凶器になり得てしまう可能性があるわけである。

 〇〇が可能になれば...という希望や期待に対して、それが可能になったらこんな危険性もあるという恐怖。自らの力で不可能とされることが可能となった際に起こるのが、その可能となったことからの展望である。

 包丁で肉や魚を捌くことができる。それ即ち人間も切ることができるという思考に。針を布に通す、針山に刺す。人間の皮膚など簡単に突き通すだろう。さらにそれが目に向けられたら・・・

 この実力を垣間見ることによりその威力が自らに向いてしまうのではないかという恐怖。このほぼほぼ有り得ないがもしかしたら・・・、という狭間な感じを都市伝説を題材におもしろおかしく描いたのがこの作品である。ラスト振り切れたことでそれに拍車がかかっている。嘘ばかりを並べ立てられると逆に本当なのではないかと疑う人間の心理をうまく(もないかな?)突いている。

 スコット・デリクソンが脚本に関わっており、この自らに届きうる恐怖というのは「フッテージ」にて活かされているのでそちらも興味ある方は是非。


〇最後に

 ところどころいろんな作品のオマージュがあるのだろうがわからない。ヒッチコック作品も全く観てないしな・・・ 

 ではでは・・・


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