デイ・アフター (2017)

2020年3月9日月曜日

2017年の作品 ジャンル:SF 製作国:ドイツ 舞台:シェルター

t f B! P L


~ウィルスとワクチン~


〇はじめに

 外界と絶対的に隔離されなければいけない事態に対し、シェルターってどれほど有用なんですかね?


〇想起する作品

 「ディヴァイド」(2011)
 「ザ・イースト」(2013)
 「AIR」(2015)
 「10クローバーフィールド・レーン」(2016)
 「ヴァイラル」(2016)
 「ブラック・ファイル 野心の代償」(2016)
 「クローズド・バル 街角の狙撃手と8人の標的」(2017)


〇こんな話

 外は危険だ。家の中にいなさい、安全だから。



〇ウィルスとワクチン

 まんま「10クローバーフィールド・レーン」なんだけど、あちらはDVの心理を主眼に監禁劇を展開したのに対し、こちらは生物兵器…ウィルスとワクチンの攻防…をそのまま人間様の行動に当てはめようとしている。

 

 人の命を救うはずのワクチンが、その欠陥から生物兵器に転用されてしまう。これによりウィルスとワクチンとが表裏一体であることを印象付けている。良かれと思ってやったことが悪い方向に働いてしまう様を見せつけることでそれを裏付ける。

 機密情報のリークは真実を世に知らしめ大勢の命を救うための善行のはずであったが、その意図を余所にテロリストにより悪用されてしまう。彼女のリークによりバイオテロという最悪の結果に陥ってしまったわけだ。これは防げた事態だったはず。

では、

 “リークが無かったらどうなっていただろうか?”

 バイオテロとは別に最悪の結果が訪れていたのではないか。彼女の行いの有無で結果に大差は無かったのではないか。

では、

 “彼女の行いにはいったい何の意味があったのか?”


 外の世界の状況が明らかになるまで彼女の行いの善悪は判断できなかったが、結果的に全て悪手であったことが明らかとなる。

 “では最初から外の世界の状況を知っていたら?”

 “いやこれでもかと説得していたのに信じなかったのは誰だ?”

 “いやいやなぜ信用に足ると言える?”

 いやいやいや、彼女がどう足掻こうと結局外の世界の状況は変わることは無いのだから、今さら何をしたところで何の意味も無いのではないか。

 いやいやいやいや、何もしないことが善であっただろうが、何かをしたからこそその行動の数々が悪だったと浮かび上がったとも言える。


 監禁男は本来(歴史が証明している)であれば一切の往来が許されない隔離された地域から自分が救助されたいがために2人の男女に罪の告白を強要する。しかし彼のこの行動が無くとも結果的に救助はやってきた。

 “彼の行動にはいったい何の意味があったのか?”

 “今さらの罪の告白にはいったい何の意味があったのか?”


 結局はどういった場合を想定して見るかで、どちら側に立っているかで、その情報に状況に…というのは見え方がグルっとマルっと変わってきたりするわけである。

 いくら全人類を救いたいと大義名分を掲げようとも、切っても切れないお金の問題がこの当初の目的を濁らせる。しかしいくら自己犠牲を美化しようとも、その犠牲となる自分こそがその研究を達成しうる存在であるが故、まずはその自らを立てなければ当初の目的は完遂できないとするジレンマがまた垣間見える。

 無償の愛を振りまくのは結構なことだが、与える側に与えられる愛が潤っていなければそれは成立しないのではないか…と。利己的であれ、というのではなく、利他的にあるために利己的でもある必要があるのではないか…と。

 彼らの行動原理…利己的に見える行動の数々を観せられての、その実とするところ…利己的の様でいて利他的、利他的の様でいて利己的…を観せられての、ラストの彼女の選択を眺めてみての・・・


 元来…本来…生物の在り方としてどうあることが自然と言えるのか?

 それに対し人類はどう行動することが求められているのか?望ましいと言えるのか?

 この2つに共通する部分、そして相反するものはないか。   


 体内におけるウィルスとワクチンの関係性及び攻防を、地球を舞台として繰り広げる人間(人類とした方が良いのかな?)のあれやこれにいざこざにと適用して眺められれば良いのではなかろうか…


〇最後に

 外は危険だ外は危険だ外は危険だ外は危険だ外は危険だ外は危険だ

 中は安全だ中は安全だ中は安全だ中は安全だ中は安全だ中は安全だ

 ではでは・・・

このブログを検索

Wikipedia

検索結果

アーカイブ

QooQ