~ただ謝ってほしかっただけ~
〇はじめに
「マギー」(2015) もそうだったけどこの作品もくたびれた感じの哀愁漂うシュワちゃんが何とも言えないね。〇想起する作品
「沈まぬ太陽」「クライマーズ・ハイ」(2008)
「マイレージ、マイライフ」(2009)
「謝罪の王様」(2013)
「ハドソン川の奇跡」(2016)
〇こんな話
とある飛行機事故の加害者とされてしまった者と被害者。〇一言あれば
ただの鉄の塊が空を飛ぶことすら信用ならんのに、人間(乗客)を安全に目的地まで送り届けるなんて尚更信じられん・・・しかし今や事故なんて本当に稀にしか起こらず安全神話まであるというのが本当にすごい。仮に悲惨な事故が起ころうとも利用を止める人間など微々たるものだろう。それくらいに事故に遭遇する確率が低いのだから・・・
そんな格段に起こる確率の低い事故に見舞われてしまったら・・・
被害者及び遺族が事故に巻き込まれたくて巻き込まれたのではないように、加害者となってしまった者も何も事故を引き起こしたくて引き起こしてしまったわけではない。安易に片づけるわけではないが、本当に不運が重なっただけなのだ。なるべくしてなったとも言えるが事故が起こるまでに正せなかったのだからそれは結果論に過ぎない。
そんな事故の被害者遺族と、事故を引き起こしてしまうに至った側の人間の両面から事故を受け起きてしまった悲劇に迫る。
家族を失った喪失感を埋められず苦しむ者と、罪の意識に駆られまた苦しむ者。立場は真逆であれど同様に苦しんでいたのは火を見るよりも明らかである。しかし最悪の事態を避けられなかったのはなぜなのか。
その理由の1つに両者を大きく分断する絶対的な壁が見て取れる。両者の立場を尊重した上での対応であろうが、仲介者もしくは代理人がそれぞれ事に当たっている。シュワちゃん以外は和解を受け入れている様でそれが悪手であるとも限らないのがまた複雑だ。
そして何より当事者間の距離を隔てしまったのは、世間が創り出してしまった論調にあると思う。謝罪とは別の方法で解決しようとしたことはもちろんなのだが、世論が直接の謝罪の機会さえも奪ってしまった様に映る。それ故の末路・・・
僕は悪人じゃない。
何が正しくて正しくないかという単純な話ではない。
起きてしまったことはもう取り返しがつかない。それはもうどうにもできない。何をしても解消されるものではない。しかしただ一言、たった一言謝罪の言葉があれば新たな犠牲は生まれなかったかもしれない。
そしてそれは復讐もまた同じである。どこかで許すことができていれば、自分と同じ苦しみを味わう人間を生み出さなかったかもしれない。
謝罪の機会と許しの機会を奪われた者たちが辿ってしまった道。どこかできっかけがあればもしや…とする希望と絶望が垣間見られるラストが何とも痛ましい。
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