BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアント (2016)

2020年1月25日土曜日

2016年の作品 ジャンル:ファンタジー 製作国:アメリカ

t f B! P L


~語彙表現~ 


〇はじめに

 スピルバーグがこのラストを撮るのか・・・、う~む。いや、故...なのかな



〇想起する作品

 「チャーリーとチョコレート工場」(2005)
 「ジャックと天空の巨人」(2013) 
 「PAN~ネバーランド、夢のはじまり~」(2015)
 「リトルプリンス 星の王子さまと私」(2015)


〇こんな話

 プップクプーにプリプリプー。



〇言いまつがい

 言いたいことと言っていることが異なってきてしまう。

 ここで表現というところを意識させたのはすばらしかった。英語だとわからない言い回しが数多くあっただろう。吹替えということで翻訳者のセンスに委ねられてしまっただろう部分はあったわけだが、これがどのような効果を生んだかは未知数にしろ、彼らのやり取りは口を伝って出た言葉つまり声だったわけだから、これはおそらく視覚的に情報を仕入れる字幕で見るよりは吹替えの方がより浸れるとは思う。スラングを含め英語に堪能であれば話は別だが。


 言葉というもののギャップ。発信者と受信者の間で言葉というものにはどのような差が生まれるのか。思った事考えた事、それを受けて発した言葉、受け取られた言葉、受け取った言葉の解釈。ここには必ずギャップが生まれる。これをどうにかこうにか工夫し、巧みに不器用なりにも言葉を組み合わせ今自分が感じていることを精一杯ほんの少しでも多く共有できるように相手に伝えようとする試み。BFGのこれが本当にすばらしかった。

 ソフィーの子どもながらにきっちりしている性格。院長先生の目の行き届かないところを補完していくことが習慣づいている様子。そんな娘の、〇〇してはいけないというものの身体が動いてしまう恐怖に勝る興味。逆に〇〇しなくてはとするが身体が動かない勇気に勝る恐怖。大人びながらもやはり子どもであることも想わせる。


 BFGとソフィーの巨人と人間という関係性に関するやり取りが見もので、ソフィーが見ている自分という存在と、BFGが見ているソフィーという存在のギャップに気付かされるのである。ソフィーが巨人の事を言いふらすのではないかとひたすらに心配するBFGと、子どもの話など大人は一切信用しないというソフィー。自分という存在の過小評価と、相手に対する過大評価の食い違い。

 こんなギャップをBFGとソフィーという巨人と人間の垣根で描いているからこそ最後の他の巨人たちの扱いが気になってしまう。隔離したんだよ、いや結果的に排除したことになるんだよ。これはどう受け止めればいいのだ?


 まぁ住み分けは大事か・・・

 しかしそれがあっても、子どもたちには夢を見てほしい、持っていてほしい、抱いてほしいという気持ちは十二分に伝わってくる。



〇最後に

 BFGはスピルバーグがモデルなのかと思ったら、マーク・ライランスか。優し気な表情が絶妙だったね。


 ではでは・・・

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