ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 (2016)

2020年1月26日日曜日

2016年の作品 ジャンル:ファンタジー シリーズ:ファンタスティック・ビースト 製作国:アメリカ 製作国:イギリス

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~ドラゴンボール化への懸念~


〇はじめに

 こいつかわいいな。飼えたら大金持ちだぜグヘヘ



〇想起する作品

 「メン・イン・ブラック」(1997)
 「BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」(2016)


〇こんな話

 あれ? 魔法動物たちがいない・・・(;^ω^)


〇ドラゴンボール化への懸念

 魔法という便利ツールをひたすらに観せられる中で、逃げ出した魔法動物たちを捉えるのはそれぞれの特性・習性を知っているからこその見事なアナログ。ここにニュート・スキャマンダーという男への理解を促されるわけだが、ニフラーには全く容赦無く魔法を使用している。この辺りのユニークなキャラや魔法動物の憎めなさというところでのバランスは絶妙だ。


 ただ人間と魔女の立場の違いというのがベースにありつつ、魔女狩り(迫害)にオブスキュラスに男女の話も絡め展開させていったのにも関わらず、ラストの神龍展開は何なんだ・・・

 これで魔法使いたちの姿勢が明らかになってしまった、定まってしまった。オブリビエイトの件に始まりその兆しは確かにあったが、魔法動物の保護活動に理解をと活動しておりそこに一石投じるということをしていたのに。・・・人の心を読める(読めてしまう)というのは良いアクセントになっていた。


 こうなってくると最終的に帳尻合わせをすればいいということになってくる。記憶消せばOKだから何をやってもいいと。つまり事前に起こり得る事態を想定してそれの対策を講じることで被害を最小限にするという思考ではなく、その場その場で一か八かの策を講じる後手後手な思考が優先されることになりかねない。だいじょぶだいじょぶ、神龍で死んだ人たち蘇らせてもらうから~・・・ 今は街を破壊しつくしてもアイツを倒さねば・・・ 地球が砕け散っても・・・

 語弊があるかな。問題は方法を知ってしまったことにある。今まで無かった画期的な方法の出現。魔法という便利ツールに縋るあまり、見失っていたものがありそうだという雰囲気は劇中に散りばめられていた。ドアを蹴破るシーン等がそれに当たる。それを描いてのラストをどう見つめるか。

 サービス過剰が当たり前化してしまった社会を思い浮かべてもらえばいいだろうか。最近はヤマト運輸なんかが問題になっているだろう。その兆しを観せたわけだ。

 それを踏まえると事前に描かれているニュート・スキャマンダーの性格というところがモノの見事にマイナスに働くことになる。何と無責任な男なのだろうかと。何か1つに集中するとそれ以外の事が見えなくなる。周りに目が行かなくなる。それによって被害が別の形で新たに広がっていくことになる。街への被害が魔法動物ではないとする説得力も、逃げ出した動物を把握できていないというところで打ち消される。でも万事解決する方法があるから大丈夫ですと。どう感じるだろうか・・・

 迷惑極まりないよね・・・

 「ハリーポッター」シリーズのドタバタ劇は子どもだから許されたというのはある。そして成長譚だったからというもの。大人はミスをしてはいけないということではなく、ミスをしないように事前に何かしらの対策を練っている講じているところが観たいのである。これが描けてこそ初めて人間界と魔法使いの世界との境界線が見えてくるはずだ。「ハリーポッター」では9と4分の3番線だったり、車が空を飛ぶことだったりで描いたわけだが、大人バージョンで観せてほしいのである。主人公の性格上それができないのであれば、他の魔法使いたちで描くべきだっただろう。ヒロインが規則に厳しい存在でバランスは確かにとれているのだが、個人ではなく組織の在り方で示してほしい。その中で見える闇として捉えられるものがあれば魔法世界という存在がグンと洗練されたものになったはずだ。

 シリーズを経るにつれて魔法使いと人間との世界の溝を、いや正確には魔法使いの人間界への姿勢か・・・、をどう落とし込んでいくのか。気になるところ。続編は是非劇場に足を運びたい。



〇最後に

 魔法世界を堪能できればいいのではなかろうか。普通におもしろい。

 ではでは・・・

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