~実験の正当性~
〇はじめに
たまに募集してるよね・・・〇想起する作品
「101日」(2010)「ディヴァイド」(2011)
「400デイズ」(2015)
「10クローバーフィールド・レーン」(2016)
「クローズド・バル 街角の狙撃手と8人の標的」(2017)
〇こんな話
今あなたの引きこもり耐性が試されます。最近スタンフォード監獄実験をやらせだとする新しい証拠が出てきた様だが、この界隈のモノは望むべく結果ありきで論じられる傾向のある分野である。にもかかわらず実験自体の正当性を確かめもせずに結果ばかりを重んじてしまう節がある。そうかもしれない…そうあるべきだ…そうあってほしくない…といったバイアスがかかるが故…としてその捉え方に関しそれはそれで面白い分析ができるわけだけど…
実験そもそもに不備があった。被験者も適格ではなかった。として実験の正当性に関しての議論を併行させることで、晒された環境により人間の本性が露わになったのではなく、望むべく人間の本性を表出させるために環境が整備されたのではないか?として趣旨が反転して見えてくる。
そもそもある程度の予備実験において実験すべく環境に晒された人間の反応というのは観測され検証され予測できていたわけだから、その方向に進まないような環境が整備されて然るべきはずで、必然的にそうすべきである。それを怠って犠牲者が出たってんだから責められるよね。いったい何のための実験だったのか・・・
どこまでが実験でどこまでが現実なのか?…と曖昧化する現実味に信憑性にと被験者と実験従事者(実施者)とで実験の内外から、そして何かしらのバイアスのかかった鑑賞者とで作品の内外から迫るお話として観れば面白いのかな?
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