ミュージアム(2016)

2020年4月19日日曜日

2016年の作品 ジャンル:サスペンス 製作国:日本

t f B! P L



~裁き~


〇はじめに

 韓国映画ならもっとうまく観せられた気がする。エグさ、グロさ、狂気といったところにおいて・・・。何より小栗旬が綺麗すぎる。かっこいいんだよ・・・ でも求められている像は彼じゃない。もっと冴えない擦れてる感じの人が合うよ。



〇想起する作品

 「セブン」(1995)
 「オールド・ボーイ」(2003)
 「ソウ」(2004)
 「蝋人形の館」(2005)
 「マーターズ」(2007)
 「殺人の告白」(2012)
 「スクリーム・ガールズ 最後の絶叫」(2015)
 「HEAVY RAIN 心の軋むとき」


〇私刑

 幸せに溢れているだろう理想的な家族像が現実に降りていき荒んでいる主人公に繋げた入りはうまい。付き合い立ては、新婚のときは、子宝に恵まれたときはどうだったかという現状の対比に頭が行く。


 現場(死体)に慣れない新人の存在も効いている。夢や希望を胸いっぱいに掲げ(ちょっと大げさか)就いた刑事という職。正義感に溢れていたはずだ。この新人が「俺は刑事に向いていない」と言うが、惨たらしい死体を見慣れるというのはどういうことなのか。主人公がどの程度深みにはまっているのかに繋がる。そして一般人との隔たりを印象付けることにもだ。

 刑事としての捜査と、私情が絡んだ捜索。友人を訪ねるのに家を尋ねる刑事に対して職場を訪れる主人公。友人を探し当てるという目的において主人公が先行し、本来の目的及び対象には刑事の方が近づいていたと観せる。どっこいどっこいなわけだ。これをプラスにとるかマイナスにとるか。事件に対して私情が絡むことでより真相(深層)に近づけるのか、第三者的な立場だからこそ見えてくるものがあるのか・・・ これが家族でありながら何も見ていなかった知らなかった主人公というところで際立ってくる。


 カエル男の犯行が問題となるわけだが、警察が事件を捜査する、裁判において審理する一応名目として真実を見極める。これら全て「人が人を〇〇する」という構図なわけである。以前は専門家がそれを全て行ってきたわけだが、裁判員制度というものでド素人も介入するようになった。

 殺人現場でカエルに「何か見てないか?」と聞く主人公。犯行の瞬間に現場にいなかった者が事件を捜査し、事件の捜査にも関わらなかった者が裁判という場で人を裁く。さらにはそういった仕事とも隔たりのある人間が介入することになった。

 時折「私刑」というものが問題になる。全くの部外者があやふやな情報を基に安全地帯から誹謗中傷罵詈雑言浴びせるなんて日常茶飯事である。しかしどっぷりとその世界に足を踏み入れたプロでもミスは犯すもの。


 裁かれるべき人間は必ずいる(かもしれない)。ではそれを裁くのは誰であるべきなのか。裁くという過程及び行為はどうあるべきなのか・・・ こんなところに想いが向くのかな?


〇疑念

 新人刑事を殺す場面は犯人のアーティストとしての一面を崩壊させたよね。殺人鬼ではなく表現者であると自負しているのにも関わらずその場でその思想を自らの手によって否定する。なんらアーティスティックではない殺し方である。

 映画の動機としてアレルギーを印象付ける、カエル男自身にとっては不測の事態であった、として補完しているのかもしれないけれど、それはそれで計画性の無さや主義主張といった意志の弱さが際立つよね。どっちにしろ逆効果だよ。

 まぁそれが誰にも理解されない作品というところに繋がっていたりもするのかな?


〇余談

 アレルギーの話はイラつく。飲食店側の至らなさはわかるがだからといって出されたものを粗末にしていいわけではない。仮に命にかかわるような問題ならばその旨をまず伝えておくべきである。ただ〇〇抜きでと注文していてはその深刻さは伝わらないだろう。アレルギーの無い人間にアレルギーに苦しむ人間を理解しろ察しろといっても難しいものがある。そんな怒り狂うほどなら自衛しろ。そういう人はまぁただのいちゃもんつけたいだけなんだろうけど。こういう軽はずみな奴がいるから真に苦しんでいる人は肩身の狭い思いをすることになる。


〇最後に

 ミステリー・サスペンス分野としては物足りないけど、まぁ・・・

 ではでは・・・

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