~日本の顔(貌)~
〇伝統
古きと新しきが混在する街並みが最初に映し出されていく。細部を観れば、部分的に観ればそれは京都の街並みだろうことはすぐにでも伺えるところから、段々と画は引かれていく。新しき街並みが古き街並みを囲っている。それは決して調和が取れているわけではなく、まるで古き街並みが新しき街並みに取り残されているかの様に、別世界のようにも思えてくる。和服に身を包んだ両親に対して、今風なファッションを着こなす娘。古風な町並みにはミスマッチな姿が、通りを1つ出れば自然と溶け込んでいく。このご時世というものを、時代の移り変わりというものを導入にて見事に描き出している。
歴史、伝統、文化・・・、というモノ。受け継がれてきたモノ。
今の時代、良きモノを創り出すのではなく売れるモノを作り出すことが、良きモノを残していくよりも代替が利くモノを消費することが主流である。そんな時代の変遷による、先代から受け継いできた稼業が途絶える寂しさをまず観せる。廃れていく伝統を想わせる。
しかしただその伝統の良さだけを抽出していないのがこの作品のすばらしいところだ。守らなければならない、受け継ぐべき伝統(精神)とは果たして何なのか。親子(家族)という今までもこれからも変わらずに続いていくだろう営みを軸に描いているのがまた感慨深い。
伝統を後世に残すということ、残していくということ。これが各々の意志とは裏腹に、義務感にて行われている節があることをこの作品は観せる。両親のお見合いにおけるやり取り。就職にて自らのやりたいことを探している友人たちと、やりたいことはわからないが自らの意志に反しコネにて内定をもらう舞。
親から子への想いがその想いとは余所に作用し、自ずとそうなるであろうラインを作り上げてしまっている。暗黙の了解を、敷かれたレールを。伝統を受け継ぐ上で、犠牲にされてきたモノが少なからずあるわけだ。
古き良きとはいったい何なのか・・・
それは必ずしも残さなければならないものなのか?
移り行く時代の中で、グローバル化の波が押し寄せる中で、ずっと同じカタチ(型)であるべきものなのか? 同じカタチでしか存在できないものだろうか?
フランス(パリ)という外国における結衣から眺める日本、世界の中で見出した日本。そして日本(京都)における日本に浸った舞が世界に魅せた日本。日本の顔(貌)として魅られるに至る2人の在り方を描き出すことでそれを紡ぎ出そうとしている。
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