~ホットドッグって流行ったの?~


〇はじめに

 ホットドッグを食べたくなったのだけれど…高度経済成長期にホットドッグは流行ったのですか?


 24時間営業のコンビニの先駆けってのはどこだったのですか? ・・・セブンか。


〇想起する作品

 「母と暮せば」(2015)
 「何者」(2016)


〇こんな話

 おにぎりはもちろんなんだけど、ホットドッグが食べたくなったな。



〇違和感はある

 突如舞台(演劇)パートへと切り替わるのに違和感が付き纏ってしまうのだが、戦争という“動”をただ語るだけで済ませるのではなく、てつさんの心象風景として閉ざされた記憶を示唆させながら、人間の身体の動きによって人間が織り成す動きによって彼女の心の“動(動揺)”をも表現しようとする試みは評価できると思う。


 てつさんの閉ざされた記憶へのアプローチとして、カメラという確かに存在した瞬間を記録するアイテムが1つ用いられているが、この記憶と記録のリンクを頭では覚えていなくとも身体が覚えている…身体に刻み込まれているものがあるとして起点とするのも見事だった。


 ただ…桜守ってのが何だったのか? この作品で浸透したかは疑問だよね。


 ラストは様々に解釈があるのだろうが、私としては疎外感が先行した。なぜ修二郎が観客としていや傍観者として舞台の外に存在するのか…と。

 とある場面、修二郎が真理に言う。「僕たち家族の事は君には一生わからない」と。

 そのナニカを経験した者にしか、そしてその経験を共有した者同士にしかわからないことは確かにある。これは作品の内外に言えるし、何より戦争経験の有無に繋がるのではないだろうか。

 そこには確かに壁が存在するかもしれないが、その垣根を越えて通ずる感じるところがあるのもまた事実。これからの未来を将来を託された我々は何を感じ何を想い何をどうしていくべきなのか…と問われている感じがした。



〇最後に

 佐藤浩市はこれぐらいのトーンの役がハマる。


 ではでは・・・

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