~ジョン・スーツ監督?~


〇はじめに

 原題「BLEACH」“漂白”かと思ったら「BREACH」“破壊”だった・・・



〇想起する作品

 「エイリアン」シリーズ
 「インデペンデンス・デイ」(1996)
 「イベント・ホライゾン」(1997)
 「エボリューション」(2001)
 「スリザー」(2006)
 「ミスト」(2007)
 「2012」(2009)
 「CARGO カーゴ」(2009)
 「パンドラム」(2009)
 「インフィニ」(2015)
 「AIR」(2015)
 「X-コンタクト」(2015)
 「ヴァイラル」(2016)
 「テラフォーマーズ」(2016)
 「パッセンジャー」(2016)
 「ANIARA アニアーラ」(2018)
 「ジェネシス」(2018)
 「3022」(2019)
 「シー・フィーバー 深海の怪物」(2019)
 「ワールドエンド」(2019)


〇こんな話

 人類が「インデペンデンス・デイ」のエイリアンになるときがすぐそこまで来ている...



〇未完成

 西暦2242年、滅亡の危機に瀕した地球で未知の伝染病に苦しむ190億人を置き去りに、厳正なる審査の下選抜された5000万人の新たなる地球“ニューアース”への移住が進められ、遂にその最終グループを乗せた舟が旅立っていった。招かれざる密航者たちを乗せて...


 量子ジャンプにより経過した30年に意味を持たせ、ニューアース到着までに要する時間を減っていく「〇日(DAY)」という基準に設定することで、人類が地球に帰属する生命であることを暗示し、

 地球から新天地へと移住しようとする人類を、人から人へと感染し最悪死に至らしめるウィルス及び、人から人へと住処を変え宿主を殺す寄生生物と同列のモノであると位置付ける試みは辛うじて感じ取れる。


 また、アダムス提督の娘ヘイリーと分不相応な関係を築いたノアと、フェルミのパラドクス云々次元を違え本来人類とは不可侵・不干渉な関係にあったエイリアンを密航者というイレギュラーな存在として同列に扱い、

 片や新しい命を宿し育もうとするモノ、片や命を奪うモノとして極端な結果をもたらすモノとして描き出すことで、生命の進化史における偶発性から人類という存在を問う試みもあったのだろう。


 しかし、規則、ルール、境界線といった何かしらの基準(ある種の思い込み)をどっしりと構築させ、それを反転させるオチを以て何かしらを問う作風が特徴的なジョン・スーツ監督とは思えないほど散漫な映画で。猿の惑星的なニューアースという希望に対するオトしが上記のどれともリンクしない惨状には頭を抱えてしまう。


 「ライフ」(2017) の様にエイリアンは人類を殺すことを目的としてるわけではなく、生存の過程でそれが絶対必須の事項だったに過ぎない、単なる生存本能によるものであった...といった要素や、

 「テラフォーマーズ」的な人類の意志によって為されようとしたニューアースへの移住が、実はエイリアンによって仕向けられていたのでは?...といったような要素を併せてのオチが本意だったのだと思うが、

 この作品はそれらの要素をチラつかせながらも提督を起こす件とニューアース特攻の件で一切合切相殺してしまっており意味を為すに至っていないのである。


 ジョン・スーツ、
エドワード・ドレイク(ドライク)、コーリ・ラージ御三方の特徴を色濃く反映させようとする試みが見て取れながら、それぞれの色をまとめ上げられぬまま一切混じり合う事のないまま結実してしまった作品の悲しき姿は
何とも痛ましく残念である。



〇余談

 わざわざ火炎放射にしなくったってモクサセルという液体そのままかけちゃえばいいのに。酒瓶持って地道にエイリアンを追いかけ回す「メタル・トランスフォーム」を見習ってほしいものだよ全く。



〇最後に

 どうしようもなかったのかね~この惨状は・・・。

 ではでは・・・


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