~権威主義的パーソナリティ~
〇はじめに
日本版オリジナル予告編の詐欺がすげぇ~(笑) 取り敢えず脱出ゲームという先入観を取っ払うことから始める。ベースにあるのはおそらくスタンフォード監獄実験やミルグラム実験。
〇想起する作品
「es[エス]」(2001)
「101日」(2010)
「エクスペリメント」(2010)
「特捜部Q 檻の中の女」(2013)
「プリズン・エクスペリメント」(2015)
「10クローバーフィールド・レーン」(2016)
全く以て気分の良いモノではないが、マイケルへの執拗ないじめを入念に描き出すことで、大学という場におけるいじめっ子といじめられっ子という立場(関係性)を明確にし、マイケルという人間の復讐という動機を確固たるモノとしており、
リチャードは事件後リサの病室にも訪れており、その後の2年という月日の中で夫妻と付き合いがある姿が描かれている。これによりリサの2年間の恨みつらみから、リチャードという男のマイケルへの感情を推し量らせることが狙いと解釈したがどうだろうか・・・???
「10クローバーフィールド・レーン」(2016)
「デイ・アフター」(2017)
〇こんな話
いじめられっ子がいじめっ子に復讐するお話。〇スタンフォード監獄実験
世界的に有名な天才バイオリニストで資産家の父が事故(火事)に遭い、介護が必要な身体になってしまったことからオーストラリアに帰国することになった大学生のマイケル。心優しそうな青年だが、転入早々目をつけられ同級生どころか教授にすらいじめられることに。陰湿ないじめの数々に耐えかねたマイケルは復讐を決意する...
また、新聞・ラジオ・テレビという情報媒体において流れてくる、一見関連性の無いテロリストの動向(バイオテロの脅威)を復讐へと至る経緯に沿わせ、マイケルの行動に変化をもたらすきっかけとしている。
脱出ゲームという印象を植え付けようとする意志が作品外で蔓延っているのでどうしたって誤解が生まれてしまうのだが、この作品の主人公はCUBE(シェルター)に閉じ込められ極限状況下に置かれる人間たちではなく、彼らをCUBEに閉じ込め極限状態に追い込むマイケルという人間である。
そしてこの作品の主題は、極限状況下に置かれた人間の心理状態ではなく、一見心優しそうなマイケルがなぜ復讐を踏みとどまれず、狂気を暴走させ取り返しのつかないところまで行き着いてしまったのか? という工程とその心理である。
マイケルの父の富と名声...火事による旧家の焼失と新居...いじめという動機...テロリストの動向による彼の行為の正当化...屋外と屋内の状況...シェルターの内と外での主従関係...介護における父と子...秘密の共有と共犯関係...
復讐へと至り豹変していくマイケルの心理をどのように読み解いていけるだろうか・・・
〇ラストに関して
極限状況下におかれ極限状態に陥ったいじめっ子たちは、マイケルに「友達になれる」と呼びかける。しかしマイケルは彼らに「都合の悪い時だけ友達だよな」と軽蔑するシーンがある。
父親曰はくマイケルは変わっており友達も少ないそうだが、マイケルもたった1度だけ、たった1人だけ親友と称した人物がいることを思い出す。父の事故後、銀行との取引や新居の手配等諸々の面倒な手続きを行ってくれたリチャードという男である。
では、このときのマイケルの心理状態はどのようなものだったのだろうか? 閉じ込められたいじめっ子たちと同じ心理状態にあった可能性はないか? ...だとすればリチャードとマイケルとは本来どういった間柄であったのだろうか? どのような関係を築いてきていたのだろうか?
そういえばと、マイケルはいじめられている中でも相手の都合の良い部分を汲み取り、自身の都合の良い様に他人を利用する姿が描かれていた気がしなくもない。
パーティと襲うところとで一連の流れでつけてるネクタイが違う気もするけど、これはどうなんだろ? でも最初の対面時とは一緒だからな。
〇疑念
熱い蒸気が沈殿するのか? 意図的なのか無意識なのか、何かしらの制限故なのか、全体的にアバウトな描写が多いので関連性を見出せない箇所がいくつもあり正直見にくい。しかし一応1つの解釈を提示できたかなと満足しておく。
ではでは・・・
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