サイレント・トーキョー (2020)

2021年12月25日土曜日

2020年の作品 ジャンル:サスペンス 季節:クリスマス 製作国:日本

t f B! P L

~日本分断~


〇はじめに

 レンタル版のジャケの方がクリスマスでサイレントなトーキョーの雰囲気出てたな・・・



〇想起する作品

 「相棒 劇場版 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン」(2008)
 「シークレット・アイズ」(2015)
 「予告犯」(2015)
 「グッドモーニングショー」(2016)
 「クリーピー 偽りの隣人」(2016)
 「相棒 劇場版Ⅳ 首都クライシス 人質は50万人!特命係 最後の決断」(2017)


〇こんな話

 私が不幸なんだからあなたたちも皆不幸になるべきだ。



〇分断世界

 クリスマス・イブは誰と過ごしますか? 大切な人へのプレゼントは準備できましたか? 1年に1度の最高の夜になりますように...


 西島秀俊演じる刑事に先入観の排除を謳わせている様に、この作品は確固たる主役を立てず、主義主張の主軸を据えず一本化を図らず、いわゆる刑事ものの様相を捨て去り、爆破事件に巻き込まれた者それぞれの目線(立場)から今当たり前に享受している平和を問いかける。


 まるで修学旅行の道程をなぞるかの如く行き着いた渋谷爆破テロ一連のシーンは、若者のほんの一部のさらにほんの一面を切り取りアホであると切り捨てる短絡さに怒りを通り越して呆れ果ててしまうものの、

 テロリストの犯行予告を受けて尚、実際に爆破事件が起きて尚、同じ首都東京にいるにも関わらず、一向に画面の中から出てくることなく終始安全な場所から「テロには屈しない」「フタイテンフタイテン」と、混乱と恐怖に包まれる現場を余所に豪語する首相を背景に映し出す事で、犠牲となる者たちは誰なのかを戦争の凄惨さを訴える試みは辛うじて感じ取れる。


 そんな爆破事件の前後で抱いた心象の変化。総理の主張に一理ありと思わせつつ、犯人の感情に寄り添わせることでの問題提起が主題なのだと思うが、犯人の動機が結局のところ「私が不幸なんだからあなたたちも皆不幸になるべきだ」という独りよがりなモノに帰結してしまっており、作品内外で支離滅裂なのには参ってしまう。


 しかし犯人の間接的な動機含むこの感情が、野次馬で勝手に赴き爆発に巻き込まれた自業自得なはずの広瀬アリスが、横浜に行くと言っていたにも関わらず渋谷に来ていた友人との約束を反故にした中村倫也に詰め寄った感情、自身の罪を棚に上げてのある種の責任転嫁と同義のモノであるとした場合、

 渋谷の爆破テロの被害者とその遺族が、彼女ないし彼らと同様の感情を抱く可能性は想像に難くないこともあって、

 当事者と部外者とでの絶対に相容れぬ感情(思想)の対立、その先にある分断によって起こり得る負の連鎖をも見据え憂慮したものだと汲み取ることができなくも、できるやも・・・、厳しいか・・・


 それよりも一番の問題は「日本人は危機意識が薄い」という論拠に疑念を抱かせてしまっていることではないだろうか...

 ハロウィンなりそれなりのイベントでの密集のイメージありきで渋谷を語り、それを頼りに異様な群集心理を説いているわけだが、爆弾云々関係無くそもそも渋谷なんていつも人がいっぱいな場所なわけで。「平和ボケだから」というより「渋谷だから」が先行するはず。

 あの時あの場に集まった人々が、大勢の人間がいることで感覚が緩み麻痺し、自分は大丈夫だろうという心理状態で爆弾騒ぎに吸い寄せられたとしたい意図には理解を示したいが、

 例えばこれを前橋駅(水戸駅や宇都宮駅は?)に置き換えて成立するかどうかを考えてみる。若者たちはわざわざ集まりに行くだろうか? クリスマスというイベントを優先させるだろうか? 全く異なった結論が導き出されはしないだろうか?

 この辺りのシミュレーションに何かしら共感させる事象、あり得るかもしれないとする根拠を据え、もう一歩踏み込んでほしい。

 あの状態は日本だからこそ当てはまり日本だけに適用されるわけではないし、日本でも適用されない場合がある。にも関わらずそれを一切合切排除し、製作者のそうあってほしいバイアスを前面に押し出し一律に扱ってしまっては、作品に込められたメッセージへの信頼が失われかねないのでないか。最悪正反対に受け取る危険性すら...


 クリスマスのイベントならば渋谷のみならずどこでも行われているだろう。渋谷はあぶないからと他の地域が商機と見て人を呼び込んでいる可能性だってある。渋谷に集まった人よりも避けた人の方が多いかもしれない。

 そんなことを鑑み、爆破された渋谷だけにフォーカスを絞るのではなくスポットライトを当てるのではなく、駅の間隔が狭い東京において渋谷で爆発があった一方で一駅二駅周辺ではどうなっているのか、さらに遠方ではどうだろうかと視野を広げていくことはできなかったか。

 今は誰かがソレを発信していればネットでリアルタイムに情報を得ることができる、状況を知ることができる。爆破テロの情報を見聞した渋谷にいなかった人間たちがそれぞれいったいどのような反応を示すのかを突き詰めていった方が核心に迫ることができたのではないか。

 ここもあぶないかもしれないと危機意識を持つ者もいれば、自分ではなくて良かったと安堵する者もいるだろう。渋谷に集まった人間たちを嘲笑する人間が出てきたり、さらなる野次馬が押し寄せる可能性も否めない。そもそもそんなこと気にも留めずイベントに興じる人間たちの方が多いかもしれない。

 さらには事後渋谷ではない空間でそれぞれのメディアでその情報に触れる機会を持つ人たちはどうだろうか。その人たちはその時何をしており、その情報をどのように受け止めるだろうか。

 そんな姿こそが、戦争は終わったモノであり過去のモノであり、あったとしてもよその国の出来事、対岸の火事だから心配はない自分は大丈夫、とする危機意識の薄い日本及び日本人の立ち位置と重なる事象であり、絶対的な根拠となったのではないだろうか。


 ただ...、この作品は終始ふんわりとしたイメージで全てを語りいや決めつけており、鑑賞者が抱いている漠然としたイメージを頼りにお話を進めていることもあって、

 「できなかった」ではなく「敢えてやらなかった」、爆破テロへの渋谷以外のモノたちの反応に当たるのが鑑賞者の我々であるとすることでの問題提起が狙いだったする理由ならば一応の理解は示せるし一理二理はあるとは思う。

 だがしかし、こちらも作品が発するメッセージを重く受け止めねばならないとは思いつつも、こういった題材を扱うに当たり爆発シーンが一番に肯定(フィーチャー)されてしまうのは由々しき事態であることを製作陣は重く重く受け止めるべきだろう。



〇余談

 時期というか時代だから仕方がないんだろうけど、ビジネスとして認められ始めた成立し始めたユーチューバーの活動としてよりも、今や時代遅れな前時代的なお金を払って放送してた30分枠を延長してたニコニコ生放送全盛期の生主の活動の在り様の方が、渋谷の群集心理にピタリとハマったと思うんだよね。また違った見え方ができたんじゃないいかな。単純に私がその時代に乗り遅れているだけってのはあるかもだけど・・・


〇最後に

 一番に出てきた感想は現場の警察官が可哀そうってだけだったけどよく持ち直した。

 ではでは・・・


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