~人類の解放と救済~
〇はじめに
エイリアンの姿が描かれないことからも、彼らは単に “違うモノ” “理解の及ばないモノ” “人智の及ばないモノ”という概念に過ぎず、このことを踏まえ彼らを起点とする話なのではなく、飽くまでも人類が起点のお話であると割り切る必要がある。〇想起する作品
「スカイライン」シリーズ
「ギャラクシー・クエスト」(1999)
「インプラント」(2002)
「地球が静止する日」(2008)
「ノウイング」(2009)
「パンドラム」(2009)
「101日」(2010)
「プレデターズ」(2010)
「プロメテウス」(2012)
「シグナル」(2014)
「リターン・トゥ・アース」(2014)
「リメイニング」(2014)
「プラネット・オブ・ロボット」(2015)
「ブリッジ・オブ・スパイ」(2015)
「インデペンデンス・デイ2016」(2016)
「ファースト・コンタクト」(2017)
「美しい星」(2017)
「インフィニティ 覚醒」(2018)
「クリムゾン・プラネット」(2018)
「オキュペーション 侵略」(2018)
「バトル・スカイ」(2018)
「キャプテン・マーベル」(2019)
「フラッシュフォワード」
〇こんな話
エイリアンっつったら地球を侵略しに来るもんでしょうがあああああああああああああ!! かつてエイリアンの侵略から地球を守るスーパーヒーロー:カレイドスコープマンに憧れていた精神科医の男。彼は毎日の様に過去に囚われ自分の世界にいる患者と向き合い、理解しようと試みている。自身も幼かった娘の死を乗り越えられない様で、また唯一の肉親である弟と確執がある様で、彼もまた過去に囚われていると言える。
妻は小学校の教師。再度妊娠したことがわかり、これを機に過去を背負い込む夫と再出発したいと願っている。ノアの方舟のお話を子どもたちに読み聞かせる中、自分に言い聞かせるかの様に、これは再出発の物語だと諭す。
この2人がそれぞれの経緯を経て宇宙と地球に配置されたことでの、宇宙から眺める人類と、地球から眺める人類というのがこの作品の描きたいとするところ...
終末のイメージの共有により核戦争の脅威が蔓延している世界であることを暗示し、またそのイメージが見えた人間と見えなかった人間との差異によって、ヒトとヒトとの違いに目を向けさせながら、人類がナニカ見えない力により人智の及ばない力により選別されんとする不安に苛まれていく様子を描き出すことで、精神科医と患者(統合失調症、自己愛性パーソナリティ障害、躁鬱病)との関係に落とし込んだのはうまい。
彼らの抱いている恐怖とは、拭えない不安とは周囲の無理解に晒されているが故であり、また自身の自身への無理解故であり、それにより生じた混乱が他者への(他者からの)理解を阻害し、理解できないものとして相容れないものとして恐怖や不安を増大させていくという悪循環に陥っているのだと魅せる。その果てにあるのが核戦争であり、世界の終末であるのだと。
これを受け、エイリアンに拉致された精神科医とその患者3人の解放と、4人の相互理解(信頼?)とを以て、地球が見舞われる無理解による大混乱(核戦争)を眺めさせることに意義があるのだと思うが...
暗殺者...ゾンビ...サイコキラー?...スーパーヒーロー...、4人の心象風景の混同(混乱)とその整理とによってもたらされるはずの彼ら自身の解放が、我々鑑賞者にとってはむしろ混乱に次ぐ混乱を生じさせる方向にばかり働き全く機能してないし、そもそもタルいったらない...
はじめに人類が起点と書いたものの、この起点ってのは人類だけならば世界を滅亡させてしまうというお話のみで、解放や救済を謳いながら人類自身はどうすべきかという問いかけは無く、エイリアンという上位種なのか神という創造者なのか、そういった導き手ありきのお話なので、結局 “理解” ではなく “信仰” ... “理解する” ではなく “理解できないけど信じる” ...に帰結してしまい、作品が作品自身を否定する自己否定の物語になってしまっており支離滅裂。
それでも信じたければ信じれば??
いやこれすらも与えられた試練であるのかもしれない・・・
〇最後に
全力の啓蒙映画です。信じましょう・・・理解を越えて・・・。 ではでは・・・
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