~私たちは間違っていた~
〇はじめに
この帰結を迎えるに当たり、ドキュメンタリー形式は足を引っ張てる気がするが・・・
「攻殻機動隊」シリーズ
「GODZILLA」3部作
「未知との遭遇」(1977)
「アライバル 侵略者」(1996)
「コンタクト」(1997)
「ギャラクシー・クエスト」(1999)
「オデッセイ2001」(2001)
「ミッション・トゥ・マーズ」(2001)
「地球が静止する日」(2008)
「CARGO」(2009)
「ノウイング」(2009)
「パンドラム」(2009)
「アナザー・プラネット」(2011)
「インターステラー」(2014)
「チャッピー」(2015)
「プラネット・オブ・ロボット」(2015)
「メッセージ」(2016)
「ライフ」(2017)
「リディバイダー」(2017)
「インフィニティ 覚醒」(2018)
「アナイアレイション 全滅領域」(2018)
「クローバーフィールド・パラドックス」(2018)
「ファイナル・フェーズ 破壊」(2018)
「UFO オヘアの未確認飛行物体」(2018)
「レプリカズ」(2018)
「2020 世界終焉の日」(2019)
「PORTALS ポータルズ」(2019)
よくよく考えるとエイリアンの行動って、SNSの一面的で空虚な情報に惑わされてしまう大衆と相違ないんだよね。まぁチャンスを与えられたということに意味があり、改めて人間が人間自身を問うということへの終着だからこれでなんら問題はないわけだけど。
「ディストリクト-X」(2020)
「幼年期の終わり」アーサー・C・クラーク
「MOONLIGHT MILE」太田垣康男
〇こんな話
未知との遭遇に際して・・・
〇人間の価値
国際宇宙ステーション近傍で突如太陽嵐と思しき現象を確認、しかし太陽に異常活動は認められなかった。独立記念日の花火を想起させるその現象は、船外活動中だった宇宙飛行士を飲み込みその後もそこに居座り続ける。宇宙飛行士は死亡宣告が為され詳細を伏せられ原因を挿げ替えられ表向き不運な事故として処理されるのだった...
地上では専門家が掻き集められ急遽対策本部を設置。球体ないし穴はヴォイドと呼称され、ステーションから送られてきた映像の解析を軸に、現象の解明と対策に躍起になり始める。高度な知的生命体とのファーストコンタクトの可能性を思慮に、混乱の懸念からメディアと大衆にはダミーの情報が流されるのだった...
けたたましく鳴り響くサイレンの後ろに重低音を響かせつつ、未知の物体の出現に翻弄される人間たちが断片的に映し出されていくオープニングから何を想像できたのか。
ヴォイドと黒い球体の出現と時を同じくして観測された、地球を滅亡の危機に陥れる現象を彼らとどのように結び付けようとしたのか。
未知との遭遇に際し、エイリアンとの接近遭遇に際し、自称頂点捕食者であり自称地球代表の人類は何に固執執着し何を天秤にかけ何を犠牲に何を優先しようとするのか。
生物学的な「人類」という存在、道徳観や倫理観に規定される「人間」という在り方を、異なる立場や役職を担う人物たちの視点及び見解を紡いでいく中で、その是非と可否、それ故の可不可な事象の数々から様々な角度で問い直すことで、現状の価値観の見つめ直しを図ろうとする試みは非常に興味深い。ドキュメンタリー形式故にまとまっていく過多数多な情報と、その整理整頓によって丁寧に構築されていく世界観も好感。
しかし、この帰結を迎えるに当たってだけは、ドキュメンタリー形式が足を引っ張ってしまってはいまいか。どこか距離を感じてしまう客観視をさせてしまう、もっと言えば傍観者ないし部外者の位置に鑑賞者を立たせてしまうこの手法は、未知への脅威や恐怖よりも興味・関心が前面に押し出されてしまい、オチの部分がイマイチピンと来ない。それ故に最後のメッセージも楽観的な印象が拭えず冷めた目で眺めてしまう可能性も・・・
一人の女性に寄り添う体であることを導入で示し、中心人物たちを据えることで何かと主観を伴わせようとする意図は汲み取れるものの、未知なるモノに対しより恐怖へと傾倒する、ナニカ身近に感じる現実味を帯びさせることができる要素を、この世界にもう一歩踏み込める要素をもう少し加味して欲しかった。
・・・、
人類は救済に値するだろうか?
〇猫
〇最後に
同じイギリス映画で、「プラネット・オブ・ロボット」(2015)、「ディストリクト-X」(2020) と似たような題材で撮ってるニール・ロウ監督とタッグ組んでくれないかな。もう少し見やすくなると思うしエンタメ感も増すと思うのだが。 ではでは・・・
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