~愛という魔法~
〇はじめに
猫なのか? アライグマ、犬、リスという単語は出てきたけど、猫って言及は無かった気がする。
「アリス・イン・ワンダーランド」シリーズ
「ジュマンジ」シリーズ
「パディントン」シリーズ
「ハリー・ポッター」シリーズ
「ハリー・ポッター」シリーズ
「ファンタスティック・ビースト」シリーズ
「ハウルの動く城」(2004)
「アーサーとミニモイの不思議な国」(2006)
「魔法使いの弟子」(2010)
「イントルーダーズ」(2011)
「プーと大人になった僕」(2018)
「ルイスと不思議の時計」(2018)
「シャザム!」(2019)
「星の王子さま」
「ネシャン・サーガ」
...あと児童文学系の作品全般。
...と思ったけど、年代的に「ファンタスティック・ビースト」かもな。
〇こんな話
多分「ハリー・ポッター」観ながら作ってる。〇本は知識の泉
祖父の家を訪れた孫2人(兄妹)は到着早々喧嘩を始めたかと思えば、折角の週末であるというのにスマホゲームで時間を潰し始める。そんな状況を見かねた祖父はスマホを取り上げ、2人に本を読んで聞かせるのだった... そのお話はというと、祖母の家を訪れた孫の男の子と友達以上恋人未満の女の子が、魔(性の悪)女との本の奪い合いで記憶喪失となったイケメン魔法使いとアライグマだか犬だかリスの使い魔ルーファスと危機に瀕した魔法の王国を救うというものだった...
本の世界において“祖母”の家を訪れた少年少女が、現実世界において“祖父”の家を訪れた兄妹よりも少し年上の設定であることや、それぞれが興じるゲームをプレステ及びスマホという時代を反映するモノ且つ時代の変遷を意識させるモノで描き出していること。
また、時折閑話休題(誤用)で物語の動向や人間模様に対する読み手と聞き手のリアクションを挿むことで、現実と虚構の境界線を曖昧化させていく2つの世界を結び付けていく、教訓や導きに落とし込んでいく演出は見事。
本の中の世界において奪い合いとなっている本を、歴代の魔法(呪文)が記された唯一無二のモノであるとし、記憶喪失という設定を組み込むことで魔法を発動するに当たり本(に書かれた呪文)を経由する演出をとり、「魔法自体」ではなく「本に記録された呪文」即ち「知識の泉である本の力」へと意識を向かせる意図も面白く、
それ故に世界の明暗を左右し得るモノでもあるのだと善悪の基準を説きながら、愛という魔法へと落とし込む王道展開も織り交ぜながら、本という記録を読み自身の知識へと昇華させた体現者として魔法使いを位置付ける構図が何より素晴らしい。
ただ...、この作品に魅せられるべき鑑賞者の子どもたちの、指針となるべき劇中の子どもたちの活躍が至極分かりにくいのが難点。
彼らが廻らせる思考や知恵が、利かせる機転がどこから来ているものなのか、また足りないモノは何なのか、それはどの様に補えるのか、という命題が描けておらず、彼らの成長はもちろん最悪存在の必要性が感じられない可能性すらある。
言動や言い回しの工夫は感じられたが、もう少し子どもたちの活躍や見せ場を顕著にできなかったか。もう少し魔法使いと子どもたちを繋ぐルーファスを軸にルーファスと共に、魔法使いと出会う前にナニカ描けることはなかったか・・・
〇最後に
「ジュラシック・ユニバース」(2018) でもそうだったけど、このライアン・ベルガルト監督は「現実」と「虚構」、「リアル」と「ヴァーチャル」といった、境界線が曖昧化していく世界、その中で隔てられていく世界、といったことに関して何か流儀というか思うところがあるのかな。これの次に撮ってる「ダイナソー・ワールド」(2020) で何かしら見えるといいな。 ではでは・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿