~愛は地球を救う~


〇はじめに

 意図的に2001年に作ったのかな? それを汲んで邦題には2001とつけたのかな?

 原題は「EPOCH」



〇想起する作品

 「2001年宇宙の旅」(1968)
 「スフィア」(1998)
 「グリーンマイル」(1999)
 「ミッション・トゥ・マーズ」(2000)
 「ドリームキャッチャー」(2003)
 「地球が静止する日」(2008)
 「インタープラネット」(2016)
 「メッセージ」(2016)
 「強殖装甲ガイバー」


〇こんな話

 40億年前に地球に飛来し生命の起源となったトーラスと、現状地球の頂点に君臨する人類との駆け引き。



〇ミッシングリンク

 親から子は生まれ、育まれ、成長し、いずれ親になる...

 男は女と出会い、女は男と出会い、夫婦になり、子を生み、親になる...


 ジフテリアにかかり亡くなったブータンの少年と彼の死を嘆く両親の前に、雷鳴の轟きとともに後にトーラスと名付けられる巨大物体が出現。少年は蘇り、両親は喜び安堵。国中で神の御業だと大喝采が起きた。


 ALSを患い治療の甲斐無く余命1年を告げられた男性。自暴自棄になる彼はメキシコの主治医に「命は尊いモノだ。短くても精一杯生きるべきだ」と諭されるも、治安の悪いアメリカとの国境に車一つ身一つで進んで足を運び強盗の被害に遭う。

 強盗に銃口を向けられ引鉄に指がかけられたその瞬間、彼にトーラスの調査依頼に来た軍用ヘリが到着。その場を生き延び、中国の隣国であるブータンへと向かうことに。生き還った少年に手を触れられた直後(いやトーラスの内部に入った後か?)、長年苦しんだ身体の異常が回復していることに気付く。


 人工授精に失敗したとの病院からの連絡にひどく落胆する女性。トーラスの調査の第一人者に抜擢され、余命幾ばくも無い男と行動を共にしトーラスの深部へと入って行く。彼の執拗で猛烈なアプローチに満更でもなさそうだが、距離を置きたがっている。


 夫婦から生まれ死した子ども、余命わずかな男性、妊娠が望めない女性...、彼らは種の存続という観点において、命を繋ぐことができない者たち。

 40億年前に地球に飛来し、生命の起源となったトーラスは、そんな彼らの途絶えた命を、途絶えようとしている命を、宿すことができない命を繋ぐことが“できる”存在として描かれる。

 彼らの再生と回復は、逸脱した命の循環への回帰は、イチ個人の生死が主の存続に寄与(直結)していることの表れだろう。


 また、地球の生命史における「突然変異」及び「ミッシングリンク」といった断絶する歴史のパイプ役を担う存在ともしている。

 人類に至るまでに地球上に誕生した全ての生命は、トーラスが存在しなければ誕生せず、繁栄も無く、進化も無かった。今までもこれからも生命が存続できるか否かはトーラス(の意思)次第ということである。


 イチ個人の生死から人類という種の存続への想起を促し、一方で地球40億年の生命史、数多の種の繁栄と絶滅から人類という種を見つめる。

 不連続な進化の系統図、種の絶滅と種の誕生(死と生)を結びつけるトーラスという地球の管理者の下、生命の進化において死とは絶滅とは一過性のモノであり、人類もまた例外ではなくそのサイクルの一部に過ぎない。

 にも関わらず、頂点捕食者を自尊し我が物顔で地上を跋扈する人類は、他の種を省みないどころか、同種間での争いが絶えず、究極自身で自身を、また地球をも滅ぼしかねない。

 トーラスの眼前で、またトーラスを相手取り繰り広げられる、
飽くまでも人類を起点とした人種、宗教、国を違える者同士の諍いに争いを受け、今までもそしてこれからも繰り返されるだろう人類の愚行の数々をトーラスはどの様に捉えるのだろうかという上位種の視点を交え、人類の見直しを図ろうとするのがこの作品の主旨か。


 今や他の種にとって害悪となっている、種の頂点でも進化の果てでもない驕り高ぶりの過ぎる人類の絶滅こそが地球にとっての希望であるのだとお灸を据えつつ、

 いや進化の一端を担っている、地球の一員である自覚の芽生えをと、人類の死(進化のリセット)を以てトーラスのご機嫌を以て次の時代(生)へと移行するのではなく、

 再生と贖罪の余地を、イチ個人の「生」が他の誰かの「生」に繋がる様に、男と女に始まる「愛」に、親と子へと繋がる「愛」に見出す様は、実に浪漫溢れるモノだった。



〇余談

 この手の人類の見つめ直しを図る作品って、最近だと環境問題が必ずと言っていいほど顔を覗かせてとっつきやすくなってるんだけど、この作品は「地球の再生」と言う文言を使用しながら一切そこには言及が無いんだよね。

 この作品で脚本を務めたフィリップ・J・ロスが監督した「ディープ・ショック」(2003) は温暖化の原因を電気ウナギとしていたし、時代的な問題なのかな?

 「アライバル 侵略者」(1996) は温暖化をエイリアンによるテラフォーミングとしているんだけど、あちらは二酸化炭素原因説を謳うことが主目的だったわけで。それに同年の「インデペンデンス・デイ」(1996) では人間が地球を破壊しているって名言してたよな・・・

 だから時代や流行のモノというより、単純に製作者の描きたいとするところ、突き詰めたいところの違いによるものなのかな。


〇最後に

 「突然変異」➡「進化は飛躍しない」

 「ミッシングリンク」➡「無いのではなく単に中間種の化石が見つかっていないだけ」

 流行りや主流の学説が時代で異なるんだけど、繋がりというところに主眼を置いて観られれば。

 ではでは・・・

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