~無慈悲な世界の中で~


〇はじめに

 病変:ゾンビ でタグ付けしたが、正確には死後復活してのゾンビ化(死者)ではなく、ある程度の感染段階があり休眠状態を経ての凶暴化(生者)。



〇想起する作品

 「REC」シリーズ
 「28週後...」(2007)
 「クローバーフィールド HAKAISHA」(2008)
 「ドゥームズデイ」(2008)
 「クライモリ デッド・ビギニング」(2011)
 「コンテイジョン」(2011)
 「エウロパ」(2013)
 「ワールド・ウォー Z」(2013)
 「マギー」(2015)
 「サンズ・オブ・ザ・デッド」(2016)
 「ディストピア パンドラの少女」(2016)
 「ハザード・オブ Z」(2016)
 「ハードコア」(2016)
 「悪女 AKUJO」(2017)


〇こんな話

 POVでゾンビ世界探訪...体感体験型ゾンビ映画...



〇失われつつあるもの

 生存者はまず検査キッドにより陰性者と陽性者に選別される。赤ならば陰性で保護、黒ならば陽性で放置。収容所へと連れ帰った生存者は一旦隔離施設へと置かれ、ある程度の期間を経て再度選別される。...かは不透明。


 陽性者はさらにレベル1~5と段階的に分類でき、レベル1であれば治療可能。しかし血清の数に限りがあるため、治療を受けられるのは必要価値があると判断された者だけ。また収容所において感染者の研究(ワクチン開発)が為されており、経過観察及びモルモットにされた後、厳重な確認の下廃棄される。


 その生存者救出に当たる隊員たちには識別番号が与えられ、また役割毎に防護服の色が変えられている。防護服の有無はもちろん、認識標と防護服の色という誰にでも明白な基準を以て照会され、その人物が何者であるかが判別される。医師等替えの利かない人間以外は基本的に使い捨て要員である。


 陰性者と陽性者という絶対的な基準を下に、命の選別が無慈悲に行われている世界。また収容所の安全(生存)のために何を差し置いても規律・規則が重んじられ、非感染者にも命の価値が定義され、その優先順位に則て誰であろうと否応なく切り捨てられる世界。


 そんな世界において、1人称視点で物語が紡がれていくのだが、この視点というのが劇中の生身の人間たち自身の主観的な視点ではなく、飽くまでもヘルメットに装着された客観性を有するカメラの映像であり、一時的に両者の視点が同期しているに過ぎない、というのがこの作品の指針なのだろう。

 初っ端から1人の例外が描かれることでブレが生じているのでは?と違和感を覚えてしまうのだが、彼の視点というのがまた1つ肝で...、いや彼の視点こそが肝で...


 安全な場により行われる手段や目的を明確にする受動的なチュートリアルにて、絞られた視野の確保を行わせてから、その広大な死角への恐怖を促す唐突な実践への流れは、ゲームっぽさが伴ってしまうものの(狙いでもあるのか)、簡単には割り切れない現実へと突き落とす意図は汲み取れ、鑑賞者強制的に彼らの視線へと同期させる。


 この、劇中の人間・ヘルメットのカメラ・我々鑑賞者、との3つの視点の一時的な同期の中で、同じ任務を請け負った者たちの目的の乖離と、それぞれが把握している事実の乖離により、彼らの背負うモノを浮き彫りにし、その背負うモノ故に乖離の裏で進む目的の収束の描き出し方は見事で、

 またそれを下地に、主人公のただただ娘を助けたいとする目的と、収容所の感染者は中に入れない規則及び、ドクター・グリアの医師「は」助ける(治療する)という、絶対的に相反する事象のたった一時の一致によって、凄惨たる世界において失われつつある愛を、母の愛を際立たせる演出は実に実に見事だった。


 ただ、それが抜け穴...崩壊の序曲とも受け取れてしまうのがちょっと不憫というか、狙っているのかどうなのか・・・


〇最後に

 娘のメーガン役の子が可愛いなと気になってみたら、「ワンダー 君は太陽」(2017) のオギーの姉の親友の子か。Danielle Rose Russell、要チェックだなぁ~。


 ではでは・・・


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