~おそらく罪と償いの探究~
〇はじめに
原題「CRAZY EIGHTS」
「缶けり」
〇こんな話
子どもに行われた行動実験と、その子どもが大人になっての廃墟探索とで何かを探る試み。 その昔、米国南部の人里離れた街で大勢の子どもたちを掻き集めとある行動実験が行われたそうで、その後参加した子供たちの多くは消息を絶ったという...
教師、神父、芸術家、女優...etc.、それぞれの道でキャリアを築いている6人は皆、悪魔に悩まされ始めた矢先に幼馴染であるブラックスの死(葬儀)をきっかけに再会。彼が残した遺言に従いとある廃墟を訪れる。
そこで彼らは思い出の品々が詰め込まれた箱を発見すると共に白骨化した遺体を発見。気味悪がった6人は遺体を残し逃げ出すが、一向に森を抜け出すことができない。何度も辿り着いてしまうお屋敷で手がかりを探そうと試みるがそのまま閉じ込められてしまうのだった...
その場所はかつて子どもたちを対象に実験が行われていた施設であり、彼らもその被験者だったことが徐々に明らかになり、そこで犯したとある罪の下ナニモノかによって1人また1人と命を奪われていく...
共通の場所で過ごした時間を以て幼馴染としているにも関わらず、その共通の記憶が欠落していながら6人の関係性が成立していることにまず疑問が湧き状況が飲み込めないが、それこそが主題なのだろうかと頑張って勘繰ってみる。
取り敢えずこの作品を読み解く上でヒントとなるだろう文言を抽出してみると...
「人は反復によって学習し、習慣によって行動する。人を人として決定づけるものは感情で、感情とは先天的なもの。」
「罪は慈悲に通じ、慈悲は最終的に人間とけだものを区別するもの。」
「経験が人格を形成するなら、感情は可能性を形成する。」
「独りじゃ恐怖と戦えない」
...といったところだろうか。
子どもたちを集め行われていた行動実験とは、罪の意識を植え付けた後「苦しみを伴う償いの箱」と「別の実験へと導く箱」の2つ(要は罪と向き合うか逃避するか)を選ばせるというものだったそうで(多分)。
子どもは「反復による学習と習慣による行動」及び「経験による人格形成」を排除できる「先天的な感情」だけを有する存在であり、その「可能性を形成する感情」のみに則った場合どのような選択が行われるのか?、罪に対し正対か逃避のどちらが選択されるのか?、という研究なのだろう。
対し、かつて子どもだった現在は社会的地位を築いている6人は、「反復による学習と習慣による行動」及び「経験による人格形成」が為された者ちたちであり、「イヤなことを忘れ」なんだかんだ「独り」で生きてきた者たちである。
子どもという存在とは対極にある存在の彼らは、忘れていた罪を思い出し罪の意識が芽生えた結果、どのような反応を示しどうのような行動を起こしたのか。この劇中の出来事が子どもを対象に行われた行動実験の対称実験(誤用)として機能するのだろう。
とある人物は、人間が社会を存続できているのは先天的に感情が備わっているからだと言う。では、人間の根源にある感情とは「反復による学習と習慣による行動」無しに「経験による人格形成」無しに、独立して罪との正対を決定づけることができるものなのだろうか。共感能力である慈悲と同義足るモノなのだろうか。
そうではなかったとして、「反復による学習と習慣による行動」及び「経験による人格形成」によって感情は慈悲となり得るのだろうか。
先天的な感情が慈悲と同義になく後天的に形成し得るものであった場合、感情を慈悲たらしめるその慈悲の基準はどこから来るのであろうか。
仮にそうであった場合、人間に先天的に備わる感情に先行して存在するその感情を慈悲たらしめる「罪」とはいったいぜんたい何なのだろうか。
そもそも罪を罪たらしめるモノとは何だろうか。罪の意識だろうか。では罪の意識とは如何様に生じるのだろうか。感情だろうか、慈悲だろうか。ではその基準はどの様に設けられるだろうか。罪に対する償いだろうか。では償いとは何に則り行われるのだろうか...
罪とは何だろうか? 償いとは何だろうか? 救いとは...
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